丸い丸いとても綺麗な玉がありました。
その玉は曇り一つなく磨かれて、透き通るほど綺麗でした。
光すら物怖じしてしまうほど、綺麗な綺麗な玉でした。
誰が磨いたのか定かではありませんが、玉はいつでも輝いていました。
その玉の中には、可愛らしい様子でお姫様が一人、ちょこんと座っていました。 綺麗に着飾って埃一つないその空間で、毎日毎日微笑んでいるように見えました。 透明に守られて傷一つ負う事無く、いつもいつもちょこんと座っていました。
その事にお姫様は満足していました。
満足していると思い込んでいました。
透明な玉の中から見る世界は、とても汚くくすんでいました。
世話しなく動き回り、走り回り、汗をかいて涙を流して、へとへとになりながら決して緩めないスピードで汚れた世界を徘徊している人達を見ていました。
「貴方達はなぜいつも、そんなに落ち着きなく彷徨っているの?」
綺麗な玉の中からそう呼びかけても、汚い世界を這い回る彼らには何も届いていませんでした。 蒼い顔をした雨曇りの広い広い世界は、人々の心から何を奪い去ってしまったのでしょう、お姫様は考え込みました。
「私の話を聞いて、きっと楽になるから、私のようにこんな風に座っていられるのよ」
お姫様の呼びかけは前と何ら変わりませんでした。 誰も彼も振り返りもしなければ眼を合わせる事すらしませんでした。
関係ないとばかりに、透明な玉を避けて歩き回っているのです。
お姫様はしばらくそんな彼らを哀れみの眼で、じっと見つめていました。
それでも何も変わりませんでした。
お姫様は初めて何か小さな空洞を手に入れていました。
それは心の中で少しずつ少しずつ大きく膨らんで、いつの間にか満ち足りていたはずの何かをお姫様から失わせていきました。
綺麗な綺麗な小さな世界で、お姫様は何不自由なく暮らしてきたのです。 それがこれから先も続いていくだけの事なのです。 何も憂う必要なんかないのに、空洞はいつしか心の半分程にもなっていました。
誰も彼も綺麗な世界に生きているお姫様には目もくれませんでした。
こんなに綺麗な世界なのに、なぜ誰も分かってくれないのか、お姫様にはそれが分かりませんでした。
そうしている間にも、空洞はどんどん大きくなりました。 いつしか磨かれて光り輝く玉そのものが、全てを塞いでしまっているような気になっていきました。 でもこの玉がなければ、誰も汚い世界から自分を守ってくれない、そう思うとお姫様はその場を動けませんでした。
お姫様は、段々自分が世界で一人ぼっちの存在であると思うようになりました。
「可哀相な私、誰も私の事を分かってくれない、こんな不幸な事って世の中に他にあるかしら」
お姫様はさめざめと泣きました。
こんなに苦しいのに、こんなに辛いのに、なぜ誰も平気で無視できるのか、益々分かりませんでした。
来る日も来る日も泣いていると、ある日汚い世界から汚い礫がゴツリと曇り一つない玉に当たり、小さな傷をつけました。
「私は何もしていないのに、私に嫉妬して私を傷付けようとする人がいる。 私はこんなに傷ついて苦しんでいるのに、まだ苦しめようとうする人がいる」
誰も聞いていない声は小さな世界の内側で、そう繰り返していました。 やっぱり誰も何も言いませんでした、見向きもしませんでした。
そうするうちに、今まで汚い汚いと思っていた世界の方が、美しく素晴らしいものに思えてきました。
お姫様は内側からコツコツと小さな傷の入った玉を叩き始めました。
今までずっとお姫様を守ってきた透明な玉は、思った以上に分厚く頑丈でした。
果たして本当に、これほど固いものだったのかすら分からないまま、お姫様は少しずつ少しずつ玉を傷付けていきました。
何度も何度も休みながら、どれほどの時が過ぎたのか、ようやく曇り一つない輝くばかりの玉は砕け始めました。 必至で叩き続けてようやく割れた玉は、鋭い硝子の破片となってそこら中に散らばりました。
汚い世界の灰がお姫様の埃一つない服を汚し、よどんだ空気がお姫様の肺に流れ込みました。
けれど、もう戻る場所はありません。
自分で砕いてしまったのですから。
お姫様は汚い空気に咽りながら、世話しない世界を彷徨う人々の間に消えていきました。 砕けてしまった硝子は、このよどんだ世界でもいつまでも光り輝く破片となって散らばっていました。
それでも、もう二度と振り返られる事はなかったのです。
やがて踏みつけられ続けて細かい細かい粒になり、さらさらと流れていきました。
お姫様は、ようやく一人ではなくなりました。 誰も彼もが蒼い顔をして停まる事無く歩を進めていましたが、お姫様の呼びかけにはちゃんと反応がありました。
無視される事もしばしばでしたが、それでも反応はありました。
お姫様の服はすぐにボロボロになりました、微笑みも消えました。
それでも、お姫様は大きくなり続ける空洞を少しでも埋める術を求めて歩き回りました、他の人と同じように。
まだまだ足りないけれど、それでもお姫様は満ちていました。
足りない事に、満ちていました。
空洞を埋める為の新しい事が次々と満ちていたのです。
満ちているから、この世界はここまで混沌とし、淀み、薄汚く荒んでいました。 しかしよく目を凝らすと、それはかつて綺麗な綺麗な玉だったものの粒子でした。 そんな粒子が無数と散らばって流れているのです。
ここはそんな世界でした。
そして、そんな世界へお姫様はようやく出てきたのです。
ようやく……