半年がかりのプロジェクトがとりあえず一区切り着いて、久々にマトモな昼休憩がとれるようになって早めに戻って缶コーヒーを片手に喫煙ルームに足を運ぶ。 デスクから離れて飯屋で定食にありついたのも正味半年ぶりとなれば、何だかどっと肩の力が抜けた。 珍しく先客のいないルーム内で一服ふかして頭の先から惚けてぼーっと窓の外を眺めていると、ふと声を掛けられた。
「よ、お疲れ」
「あ、ども」
昨今分煙はマナーとかで喫煙者は肩身の狭い思いをしながら、こんな空間に押し込まれて休憩しなければならない風潮を少しだけ恨みながら何気なく入ってきた先輩に視線をくれる。 子供が出来てからは自宅でろくすっぽ煙草が吸えなくなったとかで、やっぱり肩身の狭い思いをしながらここへ来るというわけだ。 いつも、そろそろ禁煙しようか、なんて呟きながら。
「そういや、この間の定例報告会どうだった」
「えー、もう散々ですよ。ぼろっかすに扱き下ろされました」
苦々しく煙を吐くと、先輩はカラカラ笑いながら隣で火をつける。 それにしたって話が回るのが早すぎる。 こちらはまだ痛手から立ち直っていないというのに。
「それだけ期待されてるって事だろ。良い事じゃないか」
「どうやったらそんだけポジティブに受け取れるんすか」
思わず言い返してしまったが、先輩は一層楽しそうに笑うだけで答えてくれない。 もっとも、それは自分で考えろという事なのだろうけれど、正直社会人三年目のスキルなんてたかが知れてるんだ。 むしろ少々持て余す規模の企画を任されてしまった日には、連日胃が痛くて痛くて、胃腸薬と鎮痛剤が手放せない状態だった。
横目でちらりと盗み見れば、こちらの気も知らずに先輩はゴソゴソとポケットからスマホを取り出して弄り始め、程なく完全に家庭的な表情に様変わりする。
あーあ、目元が一気に老け込んだ。
「どうした?」
「いや別に」
正直に言えば当然怒られるから言う訳がない。 暫く無言でぷかぷかさせていると、隣でスマホを弄り倒していた先輩が、ほれほれと画面を見せつけてくる。 なるべく放っておいてほしいのだが、この先輩はお構い無しに愛娘の成長記録を次々とスライドさせていく。
「もうすぐ誕生日なんだよ」
「へー、いくつになるんですか?」
「一歳。みんなで祝おうって話してるけど、俺らより親の方が気合いすげーわ」
「それはおめでとうございます」
あくまでも付き合いの上での挨拶みたいなつもりで言ったのだが、先輩は心底嬉しそうだ。 独身だった頃は連日ビルを閉め出されるギリギリまで仕事をしていたような残業の鬼が、結婚した途端にこの変わりよう。 子供が出来てからは週の半分は定時上がりするまでになった。 まあ、元々出来る人だって評判だから周囲もそんな変化にすら暖かい。 すっかり緩みきった表情で愛娘ライブラリを延々見ていた先輩が、唐突に尋ねてくる言葉がゆらゆらと辺りに舞う。
「そういや、お前の方はどうなんだ?」
「どうって何がです?」
「何がって、あれ、お前フリーだったのか?」
予想に反して反応が薄いと思われたのか、先輩は一瞬口ごもって慌てている。 こちらも飲み会の席で以外にあまりプライベートに突っ込まれる事がないから、返答に窮したものの束の間考えて一応答える事にした。
「あー、一応、いますけど……」
言いながら語尾が淀んでしまった。 そういえば、前に会ったのいつだっけか。 ここのところ残業続きで家に帰れば飲んで寝るだけの生活が続いていたから、すっかり忘れていた。 連絡すらまともにとっていない事に気付いて、さすがにマズいかと思い直した程だ。
「何だ、うまくいってないのか?」
「いや、元々こんな感じなんで」
すぱーっと吐き出した煙が目の前でモヤモヤと解れていくのを眺めながら、改めて自分達がどういう付き合いなのか表現に困った。 学生時代のサークル仲間から始まって、二人でも時々会うようになって、卒業しても何だかんだでずるずるして、時間が合えば食事したり出かけたりするけど、特別イベント的な事はした覚えがない……あれ?
「お前……それ、世間一般に薄情って言わないか?」
呆れたように呟いた先輩の言葉が妙に重たい含みを持って向けられる。 まあ、三年経って娘も生まれた今でも新婚さながらと周りから冷やかされて上機嫌になってしまう先輩からしたら温度差がありすぎるんだろうけど。 正直、それどころじゃなかったし。
久しぶりに連絡してみるか。
そう思ってスマホを取り出したものの、何て入れるべきか。 元々学生の頃から連絡取る時も必要最小限にしていたから、改めて何て打とうか一瞬迷ったが、結局いつもの如く”時間できたから、今日会うか?”とだけ入れて送った。 その文章をどうやら横から覗かれていたらしい。
「お前、いつもそんな調子なの……?」
「はい?」
気の毒そうに呟かれた言葉と共に目の前には頼りのない白煙が弱々しく漂って消えた。 何でこんな哀れむような視線を向けられなきゃならん、と思いながら灰皿にぎゅっと吸い殻を押し付けた。
「じゃ、お先です」
缶コーヒーを飲み干してゴミ箱に放り込み、喫煙ルームを出たところで着信があった。 見れば一言”いいよ、19時に駅前で”とだけ返ってきた。 可愛げの無い淡々とした文面からは、昨今もてはやされている女子力の欠片も見当たらないが、下手に長々と返信されるより余程こちらの心境は楽だ。
どこ行こうか。
元々仲間内でも酒豪だったあいつの事だ、アルコールの種類は多いに越した事はないだろうとぼんやり考えながら、唐突に思い出したのが学生時代の喧嘩ごしのワイン談義だった。 だいたいワイン通ぶる奴らの面倒くさい拘りには辟易するが、近場で打ってつけの店があったな。
スマホをしまい込んで首の後ろをこきりと音を立てて伸ばして肩を回しながら、午後はピッチを上げて仕事をこなすべく気持ちを切り替えて持ち場に戻る後ろ姿には、何とも言えない危うさが薄っすらと見え隠れしていた。