01.昼下がりの車窓から
『次は〜○○〜、○○〜、出口はぁ右側になります〜』
気の抜けたアナウンスを聞いて、降りる駅が近い事を確認した。 そういえば、最近どこの電車に乗ってもアナウンスに特徴がないなぁ……なんて思っている間に、電車がきしんで自動ドアが開く。
ぷしゅーぅ。
残り少ない乗客が降りて、電車が再び走り出す。 車内には、数えるほどしか乗っていない。 多少、気だるい様子さえ感じられる昼下がりの空いている車内を見回すと、どの人もまるで眠り込んでいるかのように、じっと黙って俯いている。
今この瞬間、時間は限りなくスローモーションだ。
がたん、ごとんっ、がたん、ごとんっ。
うぃーん。
(妙だ……)
ぼーっと車窓を眺めながら、ようやく事態がおかしな事になっているのに気が付いた。 普段通りなら、もうそろそろ次の駅に――降りる駅に着くはずなのに、車窓を流れる景色が速い。
減速どころか……いや、加速しているわりには振動は静かすぎた。 流れる景色が、だんだん流れる線の如く見え出した時、頭の中がくらくらしてきた。
○×△☆□
何やらザワザワと騒がしい……雑音が聞こえてきた。 はっとして、一瞬寝過ごしたのかと思い首をめぐらすと視界に飛び込んできたのは、人、人、人! とにかく人で溢れ返っていた。
いつの間に、こんなに人が乗ってきたのだろう。 そう思って改めて窓の外を眺めようとして振り返ると、可愛いレースのカーテンが引いてある。
(うそ! 電車内じゃない!)
そこはまるで、診療所の待合室みたいな空間だった。 初めからここにいたかの如く深々とソファーに腰掛けていた。 愕然と腰を抜かして目の前の光景を眺めていると、向かいのドアが開いた。
白衣じゃない、うすピンク衣をはおった物凄く小さな女の子が、大きなファイルを片手に裾を引きずり出てきたのである。
「次、
子供っぽい少し舌足らずな発音で、それでもしっかりと大きな声で呼ばれた名前は、紛れもない自分のものだった。
(何で、何で?)
呼ばれている事は理解していたが、立ち上がるどころか返事もしたくなかった。 名前を連呼されるのも嫌だったが、名乗り出るのはもっと嫌だった。 じっと黙って俯いていると、その視線の先に突如として女の子の顔が現れた。
「ぎゃっ、びっくりした!」
「おかもと けい さーん、無視しないでほしいだに」
「な、な、何なんですか……?」
「何なんですか、じゃないだに。 次、お宅の番なんだに」
「は?」
わけも分からないまま、うすピンク衣の女の子にずるずると制服の裾を引っ張られ、診療室に連行されてしまった。
「えーと、岡本圭、16歳さん。 今日はどうしました?」
診療所でよく見かけるグレーの丸椅子に座らされ、ごくありきたりな診察前の問診を受ける。 その流れは、ごくごく普通だのだが……
「あの、わけが分からない……っていうか、状況についていけてないのですが」
「なんと、それは大変だ!」
目の前には白衣じゃなく、やっぱりうすピンク衣の若いドクターが座っている。 あくまでも外見から察するだけで、分類上、男である事以外本当は何者なのか、正直分からない。 ドクターが合図を送ると、さっきのチビちゃんがカルテを運んできた。 それに目を通したドクターは、合点がいったとばかりに手を打った。
「ああ、何だ、君、こっちに来ちゃった人なんだ! なるほど」
そして、爽やかに笑顔を向けてきた。 実に晴れ晴れとしている。 こっちは状況についていけないって言ってるのに、勝手に爽やかに自己完結しないで欲しい……ムカツク。
「で、今日はどうしたんですか、岡本圭、16歳さん?」
仕切りなおしとばかりに、改めて同じ事を繰り返すドクターに何だか腹が立ってきて、言葉も自然とつっけんどんになる。
「年齢まで言うの、やめてもらえますか」
「年齢? あ。 これ、年齢なんだ! そうだよね、おかしいと思った。 名前の欄に書いてあるから、てっきり……こら、間違えちゃ駄目だろ、チャ……助手さん」
ドクターの振り返った先には、うすピンク衣のチビちゃんが立っている。
っていうか、こんな子供に助手させる方が悪いと思う。 チビちゃんは悪びれず、間違いをカルテの分かりにくさの所為にして子供っぽく首を背けている。 どーみたって看護資格を持っているようには見えない。 まさか、犯罪じゃん、これ?
しばらくは状況を少しでも理解する為に、ただ二人のやり取りを見ていたけれど見切りをつけて思い切って口を開いた。
「あの、さっきからあたし……ほったらかしなんですけど」
「あ、すみません本当に……いてっ、こら、助手さん! どこ行くんだ、待ちなさい!」
小さな助手さんは、ドクターの向こう脛を蹴っ飛ばしたあげく、あかんべーをしてパタパタと出て行った。 それを何となく見送ってドクターを振り返ると、当人は頭を掻きながらカルテを眺めて何やらブチブチとこぼしていた。
(こいつも、大丈夫なんだろうか……)
段々、目の前のドクターも医師免許を持ってるのかどうか、不安になってきた。
「今日は腹痛で学校を早退、それに吐き気ですか。 食欲はありますか?」
「なんで知ってるんですか、そんな事」
「カルテに書いてありますからね」
「予約どころか来る気すらなかったんですけど……」
「飛び入りですね。 チャ……助手さん曰く、来る予定だったそうですよ。 ちょっと失礼、ふむ、熱はないですね。 おや、貧血気味ですか、肌も荒れ気味ですね、睡眠はちゃんととっていますか?」
芽生えた不信感と、唐突に始まった診察に反射的に拒否反応が出た。 思わず伸びてきた手を振り払うと、被害者よろしく大声を出していた。
「ほっといて下さい!」
ドクターは患者の突然の剣幕にポカンと間を抜かす。 大きな声を出した直後に気まずくなって俯いている患者の方にも、どんよりとした空気が垂れ込めている。 その様子から、何やらやんごとなき事情を悟ったドクターは、束の間考えるポーズをとった後カルテに書き込むと、おもむろに患者に正面から向き直った。
「貴方への治療法は、こちらのタイプになりますね、じゃ、行きますよ」
ドクターが目の前でカルテを折りたたみ始め、出来上がった紙飛行機を患者に向かってヒュイッと飛ばす。 何をするんだ、この人は、と思ったが、次の瞬間には紙飛行機の上に乗っていて空の中を飛んでいた。
「えぇっ? 何、どーなってんの、おかしいんじゃないの!」
風の向くまま、今のところ安定して飛んでいる紙飛行機にしがみついて、とりあえず思いつく限りドクターの悪口を大声で連呼していた。
「やー、飛んでますね、岡本圭さん」
窓の外を眺めてのんびり呟いているドクターの後頭部を、唐突に衝撃が襲った。 振り返ると、カルテの束を片手に仁王立ちで構えている助手が目に入った。 ただ、うすピンク衣が程良い丈になるくらい大きくなってはいたけれど、ドクターにはそれがチビちゃんと同一人物である事は分かっていた。 そして、口にしないのが条件だった名前を改めて出す。
「痛いじゃないか、チャムちゃん」
「当然でしょ。 何、悠長に構えてるの」
明らかに額に青筋を立てて、表情筋を引きつらせている助手が、すっと長い指を窓外で漂っている紙飛行機に向かって指し示す。
「と、言うと?」
「患者ほっぽり出して、何やってるのって言ってんの! ドクターだったら最後まで面倒見なさいよ。 特にあの子は『来ちゃった子』なんだから、こっちの勝手を知らないの、普段の患者と違うんだからね!」
「と、言われても他の患者さんはどうしろって言うんだ」
「あたしが引き受けてあげましょう、ご心配なく」
ドクターが我が耳を疑って聞き直そうとするのを制すように、チャムちゃんが手にしたカルテの一枚を抜き出して折り始める。 程なく紙飛行機を一つ作り上げると、それをドクターの目の前に構えて笑ってみせた。 それも毒の効いた笑顔だ。
「チャムちゃん? きみ資格持ってなかったよね、確か。 何をする気かな……?」
「ドクターは、あの迷える子羊ちゃんの心配だけしていればいいの。 じゃ、ご機嫌よう」
チャムちゃんの手から紙飛行機がヒュイッと離れた。 そして次の瞬間にはドクター自身が紙飛行機上の人となり、空の只中を悠々と飛び回っていたのだ。