17.自分の道---オン・アグ・ダオン
「あ、もう挨拶は済んだの?」
玄関に現れたラスタムを見てダイオンは明るく声をかけた。 それが彼なりの心遣いだった。 ラスタムは頷いて自分の外套を着込み荷物を背負った。
まさに家を出ようかという時、ようやく家の主が出てきた。 レクヤーマスは穏やかに笑顔を向けて挨拶を交わしたが、マグレオンの方は若干複雑そうに両手を組んだ。
「やっと出てきおった、このワガママ爺ぃめ」
「それがお前の挨拶か、この頑固爺ぃ」
いきなりの大人気ない言葉の投げ合いに、子供たちは半ば呆れて老人たちを見上げていた。
「貴様の賢い弟子に感謝して、きっちり研究をしてこい」
「お前に言われるまでもないわ。 お前も良くできた弟子を取れる師匠になってみてから文句の一つも言う事じゃな」
「何だと、このつるっぱげ爺ぃ!」
「頭髪の手入れも怠るような小汚い爺ぃにハゲと言われる覚えは無いぞ」
「……」
「……」
「いい加減にしておかないかね、二人とも。 子供たちが呆れ返っているよ、大の大人が二人も揃って恥ずかしいと思わんのかね?」
最後の最後まで老人二人の口喧嘩の仲裁に入らねばならないレクヤーマスは、深い溜息と共に珍しくその眉間に一本皴を寄せた。 たった一本だったがその深さがそのまま温和な彼の究極の怒りと呆れの表現だった。
決して腰の低くない老人二人がそれを見た瞬間、ほぼ同時に神妙になったのを見て、子供たちは静かに互いの顔を見合わせた。
どうやら、こういう師匠を見るのは稀みたいだね?
そうだね、ダイオンは今まで見た事あるの?
……僕の前では無かったと思うよ。
……じゃあ、相当怒ってるって事かな?
そうかもしれないけど、言う言葉も見つからないって事じゃない?
つまり、言葉も無いくらい馬鹿ばかしいって事なんだね。
言葉を交わす事無く、視線だけで、弟子たちはそう結論を出すと同時に両肩の力をがっくりと抜いた。 普通の子供とは違うところもあるけれど、やはり子供。 そんな子供たちから見ても、やはりレクヤーマスの視点と大して変わらない光景だった。
そこにあったのは今まで見た事も無い程、子供っぽい老人たちの姿だった。 しかし、そうなるくらい今度の決断と別れは辛いものなのだろう……子供たちはそう思った。
「さあ、帰る時間が無くなってしまうよ、もうお暇しよう」
レクヤーマスは今一度フェルドベンと固く握手を交わし、外套と帽子を整えて外へと歩いていった。 それに続いて弟子が深く一礼をし、更に続いてラスタムが深く一礼をした。 これから別々の道を行く師弟の静かで簡素な挨拶を見届けて、最後にマグレオンが節くれだった手をフェルドベンの肩に置いた。
家の戸は開けられたままだった。
その扉は残った自分が閉めなければならないものだった。
緩やかとはいえ丘陵の続く大地は、すぐに出て行った四人の姿を隠してしまった。 フェルドベンは去ってゆく四人の足音や衣擦れの音にじっと耳を済ませながら、静かにゆっくりと家の扉を閉めた。
一人になった。
これで待ち続けた研究の旅に出られる。 泣き言も文句の一つも言わず、自分の立場と周囲の状況を見て一人静かに考えて、ただ黙って理解だけを示してくれた。 師匠の身勝手さに裏切られた気分にもなっただろうに、真っ直ぐ向けられた瞳と、最後に残した言葉は恨み言どころか……
「わしは、本当に良い弟子を持った」
自分の両手に有り余る程の逸材だった。
そして誰もいなくなったその場所で、誰にとなく呟いた声は震えていた。
……あ、泣いてる。
自分のすぐ後ろを歩くラスタムがずっと黙って俯いているものだから、ダイオンも心配になって少し小走りして戻り隣に並んだ。
「大丈夫?」
ラスタムは顔を上げると、大丈夫と返して小さく笑った。 とりあえず笑顔が返ってきたのでダイオンもほっとして、それから自分も口元に笑みを見せて姿勢を正した。
「寂しくないよ、今度は僕も師匠も一緒だもん。 老マグレオンだって時々なら来てくれるだろうしね!」
ラスタムを元気付けるつもりで言った言葉は、しっかり後ろを歩く老人にも聞こえていた。 つかつかと年寄りとも思えぬ速さで歩み寄ると、すれ違いざまに一発ぽかりと少年の頭を小突いて行った。
「ダイオン、大丈夫?」
「平気……だけど、やっぱり痛い。 石の老って、実は全身石で出来てるんじゃないかな?」
頭を摩りながらダイオン少年の顰められた眉毛が小さく上下する。
「ダイオンはいつでも一言が多いんだよ」
ラスタムは堪えきれずにくすくすと肩を縮めて笑い出す。
「酷いなぁ、笑うなよ、今度から僕は兄弟子なんだぞ?」
「年下なのに」
「でも僕の方が先に弟子入りしてるんだから、当然兄弟子だろ?」
「まあ、流れではそうだけど」
「あ、そういうナマイキな口を利くのはどうかと思うよ、僕」
そんな事を話しながら、先を行く老人たちがこっそり振り返った時には二人とも笑顔になっていた。 明るい笑い声が追いかけてくるのを聴きながら、実はその声に一番安堵したのは老人たちの方だった。
「本当に、ダイオンがいて良かったよ」
「まったく同感だ。 裏表が無いから、ラスタムもすんなりと受け入れる事が出来る。 あの二人はなかなか相性が良いようだな、弟子が増えても一安心といったところじゃないか?」
レクヤーマスは後ろを振り返り、笑いあっている弟子たちに手を振った。
「さあ、道のりは決して短くないよ、元気は残しておきなさい」
「はい!」
子供たちの元気な声が絶妙に重なり、同時に追いかけてきた。 こうして、ただの訪問から始まった今度の道のりが、彼らにとっての大きな分岐点と相成り、将来を担う子供たちは、おのおの自分の足で歩き始めたのだった。
彼らの訪問の二日後、『青い壁』にひっそりと佇む一軒の家からは誰も居なくなった。 沈黙の中、それは静かに主たちの帰りを待ち続けるのだ。