裂けた大地の物語

石と風と言葉---トン・ゼフュー・フ・ローグ

16.ひとつの区切り---ウント・エイン

老人は険しい表情のまま同じようにごつごつと歩きにくい足場を踏みしめて、物凄い速さで家から遠ざかっていた。 もう二度とこんな所へは足を運ばないというのがありありと窺える程だった。

そこを背後から同じかそれ以上の物凄い速さで追いついてくる者があった。 小さな影は持てる力を全てその足に注いでいるのか、老人が気が付いたおよそ直後にはもう目の前に息を切らせて立っていた。

「ラスタム……」

子供はまだ大きく両肩を上下させていたが、その手はしっかりと老人の服を捕まえていた。

「どうしたんだ、まだ何かあったのか?」

子供は大きく首を左右に振った。

「まずは深呼吸せい」

老人はちゃんと向き直った。 去る様子がない事が確認できてから子供はようやく深呼吸を繰り返して、しゃんと背筋を伸ばした。

 

「ごめんなさい!」

伸ばした直後にいきなり上半身が地面に向かって折れ曲がる。

 

「なぜお前が謝るんだ」

訳が分からずに唖然としている石の老に、子供は顔を上げるときっぱりと言った。

「石の老が怒っているからです」

「わしはお前に対して怒った覚えは無いぞ」

「でも、これはわたしが自分で選んだ道なんです。 それで石の老を怒らせたから謝るんです」

老人の厳しい表情は、相変わらず戻る様子もない。

 

「ごめんなさい、でもこれでいいんです」

「あんな自分勝手を許してやるのか? 仮にもお前の師なのだぞ?」

 

束の間の無言を経て、子供は真っ直ぐに老人を見上げた。

「わたしは先生のやろうとしている事を理解しているつもりです。 わたしは先生の役に立ちたい、だけど今のわたしは何も出来ません。 役に立つどころか荷物にしかなりません。 だからわたしは先生と一緒に行く事は出来ないんです」

「……」

「本当を言うと、ここに残りたい……残って先生の帰りを待ちたい。 だけど、それは結局何の意味も無い事なんです。 だからわたしは一度ここを出てちゃんと勉強して一人前の魔術師になってまた戻ってきます」

迷いは無かった。

一晩中考えて自分で出した結果だ。 もちろん不安はあったがそれでもこれが一番良い方法だと信じている。

森霊ファリとしてはまだ子供だ。 だが人間モルとしては充分に分別のつく歳だ。 マグレオンはその何色とも例え難い瞳の中に、この子供の行く道を垣間見た気がした。 それは決して平坦で快適な道中ではないだろう。 けれど……その皴の深い口元が作ったのは不思議な笑みだった。

 

「そうか、ならばそれで良い。わしは怒ったりしておらんし、怒りもせん」

 

皴だらけの節くれ立った指は大きく広げられてラスタムの頭を少々雑に撫でた。 老人は方向転換をするとさっさともと来た道を帰り始めた。 様子を見るようにして棒立ちになっている子供を少し先で振り返ると、老人は片手を振り上げて呼んだ。

「何をしている、わしは自分の外套を置いてきた事を思い出した。 さっさと取りに帰らんと、早く来んか」

「は、はい!」

弾かれたようにラスタムは走った。 すぐに老人の足には追いついたが、老人は老人で並外れた速度を落とそうとはしなかった。 もと来た道は、去ってきた時よりもずっと短くなっていた。

 

「あ、お帰り!」

玄関の前で立って待っていた少年が、二人を見つけて大きく手を振って走ってきた。 その後ろで家の中からゆっくりと出てきた老人が目を細めて微笑んでいる。 帰ってきた老人の肩を軽く叩き、そして連れて帰ってきた弟子の頭をやさしい手つきで撫でつけた。

「さあ、早く仕度をしなさい」

「はい、言の老」

「僕手伝うよ!」

子供たちは家の中へ駆け込んでいく。 二人の老人は無言で一度頷き合って、それから家の奥を眺めた。 もう一人の老人はその後、客人たちの準備が整うまで姿を見せなかったが、それを構う事は誰もしなかった。

 

「ラスタム、これは何?」

荷造りを手伝っている最中にダイオン少年が摘み上げた小さな巾着を、ラスタムは何も言わずにひったくった。 その手の強張った感じが少年には不思議に見えた。

「ごめん、これね、お母さんの灰なの」

「灰?」

もしそうなら、ラスタムの母親は既にこの世にいない事になる。 そう考えた少年がぎくりとした時、ラスタムは静かに一度だけ頷いた。 そして大事そうに掌に包み込んだ巾着に目を落とした。

 

「いつか安全な所が見つかったら撒いてあげるの」

 

「安全な所?」

「そう、野生の生き物以外はいない所がいいな。 木が沢山生えていて昼と夜とで環境の変わる処がいい。 その方がきっと楽しいから」

「そんなヘンテコリンな所あるかな?」

「きっとあるよ、大地には面白い場所が沢山あるもん」

ラスタムはそう言って笑った。 巾着を丁寧に荷物に加えると、必要最低限の物だけが入った背負い袋を一つだけ持って部屋を出た。 もう当分ここには戻ってこないのだ。 そう思うとやっぱり寂しかった。 だが、これが自分の選んだ道なのだ。

「さ、先生に挨拶していかなきゃ」

 

ダイオンに先に言っているよう伝えて、自分はフェルドベンの部屋へと向かった。 扉を開けると師は物静かに書物を読んでいた。

「先生」

「用意は整ったか」

「はい」

書物を閉じて振り返った老人の表情は今までに見た事がない程閑散としていた。 老人の細い手はしっかりと弟子の手を握り締めた。

「……ありがとう」

「きっと一人前の魔術師になって先生のお手伝いが出来るようになります」

「そうか」

「ですから、先生もくれぐれもお体に気を付けて下さい」

 

師が泣いているように見えたのは錯覚かもしれない。 実際に涙は出ていないし、あまりにも穏やかな口調だったから。 でも、ラスタムには泣いているように見えた。

「元気で頑張るのじゃ」

「はい、いってきます」

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.12 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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