01.竜の地の噂---レムン・ルドナニマ
どのくらいの月日が経ったのだろうか。
あの日――ゼスベルが飛び出した日。
少なくとも、短命な
だが、それを別にどうとは思わなかった。 亡国となって久しい故郷。 そこに吹く風の音も、咲いていた花々も、かつての王族や森霊たちの姿すら、時折脳裏を掠めるだけ、朧に掠め去るだけ。
ゼスベルの心は、体の何処かで掻き消えてしまっていた。 好奇心の塊で出来ていた明るい瞳は失われ、ただ奥底に計り知れない闇が横たわっているばかり……のんびりとくつろいだ笑顔は忘れ去られ、錆付いた仮面を被っているようだった。 かつての若者らしさも無く、頬は痩け、傷だらけの体は動いているのが不思議な程だった。
重力に従い垂れ下がった右腕は、見るからに重々しかった。 太古の怪魚、アエ・レイロンの刺に何度も刺された所為だろうか。 だが、それくらいでは、今や兇刃と化したゼスベルの剣を止める事など、誰にも出来なかった。
向かってくる
その刀身は、ほんのりと赤みを帯びていた。 あまりに多くの血を浴び続けた為に、少しずつしみ込んで、終いには流し落とせなくなったのだろう。 今や、その切っ先は返り血を浴びなくても悪鬼共を一刀の許に切り裂く事が可能だった。
何処をどう歩き続けてきたのかは、まるで覚えていなかった。 ただ、時折戦場の真っ只中を突っ切った気はする。 見境無く縦横無尽に馬を駆り、戦車を走らせ、槍を構え、剣を振りかざし、たまたま居合わせたゼスベルにも、彼らの矛先は向けられた。
そんな時、ゼスベルに一切の容赦はなかった。 躊躇う事も無く、自らの剣を引き抜いて刹那に閃かせる。 一度赤みを帯びた刀身が鞘から放たれれば、幾筋かの線が交錯し、その後立っている者は剣の持ち主だけであった。 そんな場面が、幾度となくあった。 その度に、ゼスベルはますます荒んでいくようだった。
宛ても無く、ただひたすら悪鬼共を切り続ける日々が延々と続いた。 この世に存在する悪鬼共を斬り尽す等、どう考えても無謀な話だった。 実際、斬っても斬っても果てが無かった。 甲斐も無く、むしろその数は日ごとにいや増していった。 それでも、ただひたすら斬り続けた。
そんな折だった。
せせらぐ川辺で乾いた喉を潤していた時だった。 ふと人間どもの会話が漏れ聞えた。 人間の何十倍、何千倍と五感の発達した森霊にとって、例えそれがただの欠伸だったとしても、充分に聞き取る事が出来た。
「
「ルドン……が、何だって?」
「村のまじない師から聞いたんだ。 太古から生きる物には、どれもこれも不思議な力が宿っているらしい。 その血は不死を約束し、その肉は不老を約束し、骨を煎じれば長寿が得られるという話だった」
「また例のホラ話を吹かれたわけだな? やめとけ、やめとけ、そう言って飛び出して帰ってきた奴ぁいないだろ!」
「確かにそうだが……仮に本当だとしたら、そいつは凄い事だと思わないか? 森霊並みの寿命や体力が手に入るかもしれないんだぞ? そうなったら、俺なら世界中を練り歩いてみたいね」
「そんな夢見事言ってる暇があったら、せっせと働くんだな。 農夫ってのは、働いて何ぼだろうが」
「分かってるって。 ただ、あのまじない師は本当に不思議な事ばかり言うもんだから」
「それで食ってるんだ、口達者にもなる。 俺達は騙されないように、適当にあしらっておけばいい」
その後、日常の他愛も無い会話になり、ゼスベルは気付かれる事も無くその場を去っていった。 そしてその夜、まじない師とやらの所へ出没し、ヨボくれた老人を大いに驚かせた。
「お、お前は森霊か……? な、何の用だこんな時刻に……」
案の定、老人は腰を抜かして声を裏返しながら、足元も覚束ないまま数歩、後ずさる。 思わず手に取った古木の枝切れを震えながら必死で握り、突然の珍客にさっと差し向けた。 まじない師には、何か意味のある棒切れなんだろうが、そんな物には全く興味を示さず、ゼスベルは足音も無く詰め寄った。
「簡潔に答えろ、竜の血についてだ」
ゼスベルが喋ると、老人は「ひっ」と悲鳴を上げた。 それで気が付いた。 この老人に森霊の言葉は通じない。
「……やれやれ、とんだマガイ者だな、お前は。 一端のまじない師を気取るなら、ナテル語くらい理解しろ」
溜息を吐きながら、ゼスベルは人間どもの言葉であり、また森霊や
「竜は特別な生き物だ、太古の生物の中でも格別の力を持つ。 その血肉を手に入れれば、その者は竜の恩寵を受ける事が出来る。 それは、例え森霊や魔術師であろうと到底及びもしない力なのだ」
「それは一体、どこにある? 太古の生き物など、ここ数百年見た事もない。 たかだか一介の人間どものいう事を、信じられると思うか」
「わしは嘘は付いていない! この古木を見ろ! こいつがわしに語りかけてくるのだ、わしは断じて……」
「もういい、黙れ」
ゼスベルの冷たい闇に一睨みされて、老人はまたもや喉の奥で引きつった悲鳴を上げた。 そもそも、まじない師などと言うのは、魔術師の修行に耐えかねた落第者だ。 その程度の成り損ないが、森霊や魔術師の事を語るなど、愚かしいにも程がある。
心底がっかりした様子で踵を返そうとしたゼスベルに、突然年老いたまじない師が声を発した。 手に握る古木に一瞬視線を走らせて、それからまた目の前の森霊を凝視する。
「お、お前まさか……ジス・エスベルか?」
「何だ」
眉を顰めて振り向いたゼスベルに怯えてはいたものの、まじない師は時折、枝切れに視線を移しながら恐る恐る口を開く。 それは自分の意思で喋るというよりも、何かの力に半ば強制されて口を動かしているようにも見えた。
ゼスベルの闇に沈んだ視線が、一瞬古木に向けられる。
「もし、もしそうならば……オベルへ行け。 そこに、お前を待つ者がいる」
それだけを言い残すと、まじない師はばったりと倒れてしまった。
「オベル……?」
聞いた事も無い土地だった。 一体それは何処にあるのだろう。