裂けた大地の物語

知恵の巨人---エングス・イエスト

02.知恵を手に入れた巨人---イエスト・エス・エングス

その昔、まだ太古が息づく大地の頃、一人の巨人イエストがいた。 穏やかで、大らかで、のんびりと自分の村で仲間と共に楽しく日々を暮らしていた。 仲間思いで、何でもまず自分が率先して物事に取り掛かる性格だったから、ルーゴーと呼ばれ、それがいつしか名前になっていた。

彼らの言葉で、初めの人という意味だった。

そんな彼の運命を大きく変えてしまう事件が起きた。 それは、ある何の変哲もない朝の出来事だった。 朝、起きて眠たい目を擦りながら家の外へ出ると、井戸へ向かった。 村の真ん中にある、共同の水場には誰も居なかった。 朝早いとは言え、珍しい事だった。 だが、ルーゴーは特に気にする事無く、井戸から水を引き上げて顔を洗った。

その時だった。

眠気の抜け切らない耳に、何かを囁くような声が聞えた気がした。 顔を上げて周囲を見上げても、誰も居ない。 何も無い。 鳥のさえずりすら聞えない。 小首を傾げてルーゴーは顔を拭いた。 その時、もう一度囁くような声が聞えた。 それは水の中からと、空の上から湧き上がるように響いてきた。

 

一体、何なのだろう?

 

突然起こった不思議な出来事に、とっさに驚く事すら出来なかった。 ただ間抜けにも口を開けて周囲を見回すだけだ。 囁き声は、何やら不思議な旋律を奏でていた。 それは言葉だったのかもしれないが、少なくともルーゴーには理解できない言語だった。

 

よく分からないけれど、何だか綺麗な音だなぁ……

 

そう思った時、井戸からは水柱が、そして空からは眩いばかりの光の柱が現れた。 その二本の柱は、ルーゴーを取り囲むように螺旋を描きながら上に下にと伸びてくる。 唖然として他人事のように眺めていたルーゴーの目は、既に心が持ち去られたかのように遥か遠方に向けて、定まらない視線を泳がせていた。

二本の柱は互いに絡み合うようにうねり、ついにはルーゴーを飲み込んでしまった。 一瞬視界からルーゴーの姿が消えた後、この不思議な現象もまた跡形も無く消え去った。 後に残されたのは、未だ放心状態で佇んでいるルーゴーだけであった。

 

まるで夢から覚めたような驚いた表情を見せていた。 しばらく無言で立ち尽くしていたルーゴーがようやく身動きしたのは、それから小半時ほど経ってからだった。

 

ルーゴーはその日、普段と何一つ変わらない様子で仕事をし、仲間と談笑し、そして家に帰っていった。 だから、誰も何も気付かなかった。 彼が、こっそりと夜中に村を出てしまった事になど、誰も……。

その晩から、ルーゴーはぱったりと姿を消してしまった。 何年何十年と待ち続けても、一向に帰ってこなかった。 ルーゴーが何処へ行ってしまったのか、誰にも分からなかった。 巨人達は、ただひたすら無事を祈って帰ってくる事を信じて、待つほか無かったのである。 そのささやかな願いが叶う事は、無かった。

 

仲間達の心配を他所事に、ルーゴーはひたすら歩き続けていた。 導かれているのか、急かされているのか、それとも邪な何かに引っ張られているのか、とにかく歩き続けていた。 ただ、ひたすらに、ふらふらと。

 

そうして辿り着いた先は、一つの泉だった。 静かに湧き上がる泉は、透明で清んでいて、そして心地良い水音を時折立てては、とめどなく流れ出して小さな川を作っていた。 その川の先には、とうの昔に枯れ果てたと思しき古木の根があった。

 

ルーゴーは、見た瞬間に泉の水を両手に掬っていた。 歩き詰めで喉がカラカラだった事に気付いたからだったのかは定かじゃない。 だが、誰かが側にいたとしても、おそらく止めに入るような時間は無かっただろう。 ルーゴーは無我夢中で泉の水を飲んだ。 一口飲んだ瞬間から、止められなくなっていたのだ。 そうして、長い時間をかけて、とうとうルーゴーは泉を飲み干してしまった。

ほっと一息吐いて間もなく、ルーゴーは自分の体の異変に気が付いた。 身体の内側からざわざわと何かが大量に湧き上がるかのようだった。 両手で押さえつけても、まるで無駄であった。 ルーゴーは恐怖に駆られて叫んだ。 のた打ち回り、起き上がると、そこら一体を縦横無尽に走り回った。

走れなくなる頃には、ルーゴーはすっかり巨人では無くなっていた。 振り返ると、泉の水はまた満杯になり、とうとうと流れ出していた。 そこに移った自分の姿は、おぞましい怪物であった。

 

それがルドンと呼ばれる生き物である事を、ルーゴーはこの時既に理解していた。 泉の水は、彼から元の姿を奪った変わりに、数多の知恵を与えていたからだ。 また、彼は知恵を得たばかりに、物事の先を読む事が出来るようになって、その代わりに仲間と帰る場所を失った。

 

彼は独りぼっちで、この泉に留まる事になった。 この泉の番をする事にした。 勿論、そんな事はしなくても良かった。 だが、この時ルーゴーの心には新たに芽生えた欲があった。 この欲と葛藤し、また苛まれる事を覚えつつ、尚も泉を独占していたい気持ちは湧き上がり、ここを動く事が出来なかった。

泉に近付くものは、何者であれ片端から殺していった。 中には昔見た気のする巨人もいたかもしれない。 だが、それ以上の事は考えなかった。 彼には勝つ方法が分かったし、竜の爪と牙と硬い鱗がそれを可能にした。

 

竜になったルーゴーは、その後も火を操る事、風を巻き起こす事、水をせき止める事、地面を揺るがす事も覚えていった。 そして、これから先に起こるであろう事までも透かし見る事が出来るようになった。

そして、自分の運命を悟ったのだ。 これから何千年と後の世に、ここへ辿り着く森霊ファリの若者が、自分の人生に終止符を打つであろう事を。 そして、その時ようやくこの身が解き放たれるであろう事を。

 

その、森霊の名は……『深き哀しみ』。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.06 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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