裂けた大地の物語

ゼスベル哀歌---フォーヌ・ゼスベル

15.空を泳ぐ怪魚---アエ・レイロン

ひとまず負傷しているグロリアを岩陰に横たえると、ゼスベルは満身創痍のその身体で剣を構えた。

――過去に一度だけ、空を泳ぐ怪魚、アエ・レイロンと相まみえた事があった。 巨大な鱗に覆われ、鋭い牙と刺を持つ好戦的な生物だった。 その鱗の硬さは今でもハッキリと記憶している。 危うく剣の刃が砕け散るところだった。

 

一匹でも大変なのに、ここはその怪魚の巣だ。 何匹出てくるのか皆目見当がつかない。 だが、グロリアの容態は、既に一刻の猶予すらない。 ここで怯んでいるわけにはいかないのだ、何としても脱出しなければ。

岩壁にこだまする鳴声は、徐々に大きくなり耳障りな鱗のこすれる音が近付いてくると、程なく騒音の主が現れる。 その大きさは記憶に違わなかった。 むしろ、更に大きくなったようにすら見えた。

「……怪魚か、まったくだな」

裏切られなかった現実に舌打ちして、ゼスベルは大きく一呼吸置いた。 弱点を知らないわけじゃない。 アエ・レイロンの鱗は硬いが、その鱗と鱗の隙間は剣が通る。 そして、それが致命傷を誘う最大の攻撃だ。

問題は、どうやって狙うか、だ。 うだうだ考えている間にも、怪魚はじわりじわりと近付いてくる。 ゼスベルの殺気を感じ取って慎重になっている様子だが、引き下がる様子はまるでなかった。 むしろ、餌となるに相応しいかどうかを品定めしているようですらある。

 

しばし、重圧を伴う沈黙が続いた。

 

ゼスベルの耳には微かにグロリアの弱々しい息遣いが聞えていた。 怪魚にも聞えているのか否かは謎にしても、先に沈黙の均衡を破ったのはアエ・レイロンの方だった。 空を泳ぎ、まるで突風のような速さで牙を剥き出して向かってきた。

何とかかわすと、ゼスベルは己の手に握られた剣で鱗の下のうねる胴体を突き通そうとした。 剣はあっさりと強靭な鱗に弾かれて、剣士もろとも吹っ飛んだ。 したたか背中を岩壁に打ちつけ、とっさの判断が鈍った隙に、怪魚アエ・レイロンはその刺でゼスベルの肩と太腿に傷を負わせた。 足の方はともかく、肩に受けた傷は深かった。

思わず呻いて転がると、怪魚の攻撃は一層熾烈なものとなった。

或いは只、腹を空かせていたのかもしれない。

おそらく、止めのつもりで大口を開けたのだろう。 ゼスベルは呼吸を合わせると、鋭い牙を掻い潜り顎の下から渾身の力を込めて鱗の下に隠れた生身を突き通した。 顎から頭までを貫かれては、如何に太古の怪魚といえども一たまりもなかったらしく、暫くはゼスベルごとのたうち回ってそこら中を暴れまわった。 怪魚の巨体がぶち当たる度、地響きが轟き、岩壁がぱらぱらと崩れ落ち、鋼の如き鱗が縦横無尽に飛び散った。

 

最後の足掻きで怪魚が大きく巨体を揺すった拍子に、ゼスベルは投げ出され、まるで飛び石の如く吹っ飛んだ。 何度か弾むように身体を打ち付けて、硬い地面を転がった。

その足掻きを最後に、怪魚が轟音を立てて地面に倒れ落ちた後もゼスベルは一しきり咳き込んで呻いた。 身体に受けた衝撃が大き過ぎて、すぐには立ち上がる事も出来なかった。

尚も咳き込みつつ、流血でベタベタになった身体を引きずって、ゼスベルはグロリアの元へと急いだ。 横たえた彼女の身体は、既に冷たくなり始めていた。 呼吸もずっと弱くなり、ただ時々口が動くだけ。 それは言葉にはならなかった。

「……グロリア、帰ろう」

何とかグロリアを担ぎ上げた途端、ゼスベルは再び激しく咳き込んだ。 その身体は既に怪我人の域を超えていた。 自身を支える事もままならない状態であったにも関わらず、担ぐ本人に諦める様子は無かった。

剣を補助杖の代わりにして何とか怪魚の巣を脱出し、戻ってきたゼスベルを待ち受けていたのは、更に信じがたい光景だった。

 

「これは……」

 

森のあちこちで黒く禍々しい煙が上がっていた。

 

「何があったんだ、一体……」

 

森に入って行く程、その被害の有様に驚く事しか出来ない。 薙ぎ倒された木々の痕、打ち壊された家々、転がっている森霊ファリたち。 そのこと如くが既に息絶えていた。

「どういう事だ、一体どうなっているんだ」

重傷を負っているにも関わらず、我を忘れてゼスベルは王城へと急いだ。 王城の門は開け放たれ、普段ならいる筈の門番や見張りの兵の姿は何処にも無かった。

「グラニアス……グラニアス、何処だ! グラニアス!」

長い廊下を重い足を引きずるように走ると、一気に王の執務室へと転がり込んだ。 ゼスベルが顔を上げると、そこにグラニアスの姿はあった。 だが、王の衣装を血で染めて、散々吐血した後の様子で倒れていた。

「グラニアス!」

「……ゼスベル、か?」

辛うじて息のある王が、静かに重たい頭を上げる。 駆け寄ると、ゼスベルの目に飛び込んできたのは、その背に深々と刻まれた無数の刺し傷であった。

「グラニアス、一体どうした、何があったんだ、これは!」

「ゼスベル……お前、無事……だったのか、グロリアが、いなくなっ……」

「いる、ちゃんと連れて来た! グロリアならちゃんとここに……」

「……なら、いい。 よかっ……」

グラニアスの血で汚れた口元が、微かに安堵で綻んだのを見た瞬間、それがグラニアスの最期だった。 そのまま頭を床に落として動かなくなった。

 

「グラニアス? おい、しっかりしろ、グラニアス!」

 

叫ぼうが揺すろうが、グラニアスが応じる事は二度と無かった。 そして、背に負っていたグロリアが、だらりと細い腕を垂れ、ずるずるとずり落ちていく。 その蒼白の口元にも、また既に息は無かった。

 

突然の事に唖然とする他なかったゼスベルの背後で、人の動く気配がした。 振り返るのと同時に、数多の兵に周囲を囲まれ、また人垣の中から現れた諸侯の姿に、あっと驚かざるを得なかった。

「元老たち、なぜ……」

その面々からは、いずれも我を忘れた憎悪の感情が滲み出している。 しかし、本来なら先天的な魔力を宿す筈の、何色ともつかない森霊特色の瞳は、まるで虚ろな暗闇に呑み込まれていた。

 

「生きて戻ってきたのか、あの太古の巣窟から。 さすがと言うべきか、まったくと言うべきか……何とも『絶望』という名を持つに相応しい森霊だな、お前という奴は」

 

つい今しがたまで息のあった自分達の若き王を、まるで物でも見るような目で一瞥をくれる彼らの様子に、まさかと思いつつもゼスベルの背に恐るべき戦慄が走る。 どうか否定してほしい、心の奥底でそう願いながらも、その口は決して紡ぎたくは無い言葉を吐き出していた。

「……あんたが殺したのか、グラニアスを」

 

「まずはご警告申し上げた。 決して『嘆きの時代』に関わってはならぬ、と。 だが愚かにも王はお聞き入れ下さらなかった。 日没の森を守る為にも、余計な事に首を突っ込んだ輩を排除したにも関わらず……お前は、また舞い戻ってきたのか……」

 

無情にも淡々と刻まれた言葉は、ゼスベルの今にも切れそうになっている緊張の糸に易々と触れた。 元老たちの表情は、今やすっかり恐怖に慄いて土気色だった。 声も拳も震わせて、その震える指でゼスベルを指し構えた。

「お前が……元凶であるお前が舞い戻った所為で、つい先刻まで悪鬼オンズどもが……この森を食い荒らし、ことごとく破壊し……。 お前の所為だ、ゼスベル! お前の所為で……」

急に何かに触れたように視線を彷徨わせ、虚ろな暗闇の広がる瞳がゼスベルであってゼスベルでない何かを凝視する。 そんな連中の戯言を、これ以上聞いている気にはなれなかった。

 

この怒りを、どう表現すればいい。

 

「なぜ、殺す必要があった……? グラニアスは森を守ろうとしていた、その為に必死だった。 グランドウ以来の、偉大な王になっていたかもしれない自分達の王を……なぜ、殺す必要があった!」

 

否、表現に足りる言葉など無い!

 

ゼスベルの目には大粒の涙が溢れていた。 そして、それと同時に今まで無かった狂気がその目に宿った。 元老たちが恐れを抱いたのと時を同じくして、ゼスベルの左腕に握られていた剣が、一気に引き抜かれ、兇刃となって手当たり次第に閃いた。 そのまま王城を飛び出し、群がってくる悪鬼どもを片端から切り倒しながら走り去った森霊の、若者の悲痛を知る者など、その場には誰一人として居なかった。

 

再び、ゼスベルが人前に姿を見せるのは、それから随分と後の話になる。

それまで、長い長い歳月を待たなければならない。

ゼスベル哀歌 終

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.05 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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