裂けた大地の物語

ゼスベル哀歌---フォーヌ・ゼスベル

14.裏切りの朝--ニッサー・オズモアー

「ちっ、やっぱり駄目か」

指の先から乾いた音を立てて崩れ落ちていく岩肌に、ゼスベルは思わず舌打ちをした。 登ろうにも、力の入らない指が擦れるだけで、脆くも剥がれ落ちていく岩は、その見た目だけは重厚だが、完全な見掛け倒しだ。 折角少し登っても、一つの足の掛け間違いで、あっという間に地面に叩き落される。

まるで壁のような岩の空間は、ゼスベルが立てる音以外、まるで静寂に包まれていた。 何度目かの地面で、さすがのゼスベルも今は立ち上がる気力も無い。 身体は相変わらず時々鋭い痛みを伴う鈍痛に悩まされ、未だに痺れを伴った。 おまけに道具と呼べそうな装身具は一切身に付けていない。 何て間が悪いんだろう、本当に。

肩でようやく息をしているような、そんな荒い呼吸の下で地面は相変わらず無愛想に冷たく体温を奪い、他の誰かがいる気配も感じ取る事は出来なかった。

 

一体、どの位の時間が経過したのだろう。

 

正直、外からの光がほとんど届かないこんな場所では、昼夜の見分けもつかなかった。 加えてこの怪我だ、満足に腹も空かず、睡眠もままならない。 いや、むしろ眠らない事で辛うじて生きながらえているのかもしれない。 要するに、時間の感覚を狂わせるには充分すぎる環境だった。

ふと、持ち上げるだけで不愉快な軋みを伴う掌を開いてみると、皮膚は破れ、血豆も潰れきり、これは果たして誰の手かと思う程だった。

「参ったなぁ……」

他に言葉も見つからず、ただ溜息と共に吐き出した言葉が、この閉ざされた世界にこだまする。 それでなくても冷え切った体から、この空間は生存に必要最低限の体温と気力すら奪っていく。 言葉が昇って行った彼方を呆然と見つめながら再び咳き込むと、ゼスベルはそのまま瞼を降ろし、じっと動かなくなった。

 

「貴方、本当に見たのね! 嘘じゃないのね? もし嘘だったらその口に蛙ぶち込んでやるんだから!」

 

普段こそ、おっとりとした気質のグロリアが物凄い剣幕で食って掛かっている。 その彼女の前でただひたすら気圧されて怯えているこの森霊ファリは、何処から見てもまだ幼い少年だった。

お忍びで再三ゼスベルの家に様子を伺いに来ていたこの王族のお姫様の耳に、近くで遊んでいた少年達の会話が聞えてしまったのが、そもそもの始まりだった。

「ぼくこの間、誘拐現場見ちゃったんだ!」

「え、凄い! どうしたの?」

「うん、あのね。 五人くらいで男の人抱えて、西の端から森を出て行ったんだ!」

「えーっ!」

普段のグロリアなら、きっと冗談だと思って聞き流すところだろうが、事の次第が次第だっただけに、お忍びであるのを忘れて少年達の前に飛び出していってしまったのである。 呆気に取られる少年達に、「詳しく話を聞かせなさい、今すぐ!」と仁王立ちで命令したのだ。

 

「本当だってば! 嘘なんかついてないよ、ちゃんと見たんだよ!」

少年は顔色を変えて必死で訴える。 目の前の美しいお姫様の表情が、見る見るうちに変貌していく様は、それはそれは怖かった。

「……分かったわ、もうお行きなさい」

その一言で少年達は飛ぶように走り去って行った。 あっという間に消えていった小さな後姿が、どれ程怯えていたかを物語っているようだった。 そして、グロリアはその場でしばらく立ち尽くして真剣に考えていた。

 

間違いない、ゼスベルは不意打ちに遭って誘拐されたんだ。

でも、何処へ?

子供達は、西の端から森を出たと言っていた。 決して行ってはいけない場所だと子供の頃から言いつけられるような所だ。 西の端……そこに何があっただろうか。 冒険好きのゼスベルから聞いていた筈なのに、こんな時に思い出せないなんて!

「……ああ、もう!」

いくら子供達の話とはいえ、事が一刻を争う事はグロリアにだって充分理解できる。 やがて沈み行く太陽の位置を無意識の内に視線が追っていた。

 

そして、その翌日、新王グラニアスの元に思っても見なかった一報が届けられる。

 

「グロリアが、見当たらない……?」

頭が痛くなる。

ゼスベルに続いて、グロリアまでが居なくなるとは! 一体どうなっているんだ。

何故と言われると上手く答えられないが、何だか物事が少しずつ悪い方へ傾いている気がする。 そして、その傾きを食い止める方法が見つからない。

現状唯一、事態を打開できる鍵を握っている筈のゼスベルが行方不明。

そして、その行方を躍起になって探っていたグロリアまでが居なくなった。

僅か、この数日の間で!

 

見えないところで誰かが糸を操っているようだ。

でも、一体それは誰だ?

何かと保守的な元老達か。 それとも若すぎる新王に反感を持っている、祖父王の代からの家臣達か。 或いは、厳格すぎるまでにこの森の統制を図っていた父王によって処罰された者達の仕業だろうか。

一度疑ってしまえば、その先は延々と果てが無い。 誰も彼もが陰謀を巡らしているように見えてしまう。

どうすればいい。 王という身分では、そうそう簡単に動き回るわけにもいかない。 考えは焦るばかりで、肝心の解決策が皆目見当たらない。 それでも、考えなければならないのだ、これからどうするのかを。

こんな時、お前ならどうするだろうか。 ふと、自由に飛び回る、型破りで大胆不敵な王族の問題児の姿が目に浮かぶ。 ――無事でいろ、必ず。

 

唐突に目を覚ましたのは、何かの気配を感じ取ったからだ。

 

周りは相変わらず物音一つしない。

ただ冷たい岩盤と、湿った匂いが鼻の奥まで届くだけ。

 

満足に動き回る事も出来ず、身体は弱っていく一方だった。 それでも勘だけは――生きる本能だけは、少しずつ戻ってきていた。 以前ほど研ぎ澄まされてはいないが、足音すら立てない何かの気配を察知する事くらいは出来るまでになっていた。

悪鬼オンズとは違う。

けれど、確かに危険な感じがする。

一体何だ……何がいるんだ。

起き上がって何とか体勢を整えると、ゼスベルは一層集中した。 程なく、別の所からかすかな物音が聞えてきた。 足音だ、随分と疲れきった、重たい足取りだ。 更に、じっと耳を澄ますと、か細い呼び声が鋭さを取り戻し始めたゼスベルの鼓膜を刺激する。

「ゼスベル……ゼスベル、いたら返事をして、ゼスベル……?」

この声は!

「グロリア!」

驚いて思わず大きな声が出た。 そして、その声を聞いて転がり落ちてきた一塊の側に駆け寄ると、それは間違いなく遠い親戚に当たる、お節介焼きの妹だった。 ただ、普段のようなドレスではなく、明らかに大きな男物の軽装を、ぐだぐだにして身にまとい、一振りの剣を抱えていた。

「その姿……」

「ごめんなさい、貴方の服ちょっと借りちゃった」

 

「そうじゃない! グロリア、その傷は一体どうしたんだ!」

 

この期に及んで、血の気のすっかり失せた顔で、とぼけた事を言う妹を叱咤したゼスベルの目は、その背中を凝視していた。 細くて華奢な身体は、既に一目見て重篤と取れる傷を負っていた。 まるで鋭利な刃物で切り裂かれたような深い傷が刻まれて――削げ落ちんばかりだったのだ。

「一体、何があった……」

一瞬で蒼白色に変わり、強張ったゼスベルの声は、無理やり絞り出して擦れていた。 その目は、何があったのかまるで分からずに困惑したまま、ただ揺れている。

 

「良かった、まだ遭遇していなかったのね? 貴方の剣を持って来たの、ここは太古の魚……アエ・レイロンの巣よ」

 

「アエ・レイロンの巣……? つまり、ここは日没の森からそう遠くないんだな。 だとしても、何故、一人でそんな無茶を――ここへは踏み入るなと、あれ程!」

 

「ゼスベル言ってたわよね? グランドウの地の西の端は、まるで世界が違うって、そこには未だに太古が生息しているって……貴方が誘拐されたって聞いて、それを見ていた子供達に話を聞いて、やっと思い出して……」

「もういいから、分かったから喋るんじゃない、グロリア!」

自分を探す為に大怪我を負って尚引き返さなかったのは、むしろ愚かな行動だろう。 だが、それを責める事はゼスベルには出来なかった。 今となっては少しでも早くグロリアを安全な所に運んで手当てをし、安静にさせる事が先決だ。

 

自身も充分に重症ではあったが、それでも元々の体力や経験を考えれば、今のグロリアよりは辛うじて薄皮一枚分くらいはマシだ。 とにかく脱出する事だ。

グロリアを抱え上げた時、ふとゼスベルの耳に何かの鳴声が聞えた。 それがアエ・レイロンである事は明白だった。 おそらく、グロリアの血の匂いを嗅ぎ付けて戻ってきたに違いない……まずい事になった。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.05 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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