散文100のお題

009. 時計の針

リヒター氏はいつも言う、何事もバランスが大事だと。

そしてある日ふと思った、なぜ時間というものは前にしか進まないのか。

前進があれば後退もある、だからこそバランスが保たれるはずではないのか。 そう一人ごちたリヒター氏の視線の先には、こちこちと無機質な一定音を奏でる文明がそこにあった。

リヒター氏はお気に入りの安楽椅子から立ち上がると、きっちり部屋を二度歩き回った。 勿論右に回れば次は左に。 そして棚の上、机の下、果ては懐からまで探り出した文明をじっとねめつけた。 そして、ふうと溜息を吐いた。

 

取り出した文明を再び懐にしまい込むと、リヒター氏は部屋の外へと出て行った。 廊下、壁、一つ一つの部屋をくまなく調べて回ったが、どこもかしこも前に進んでばかりであった。 大広間で一際大きく無機質な旋律を奏でる一番古い時計でさえ、文明を前にしか進めておらず、リヒター氏は更に大きな溜息を吐いた。

「外出してくる」

そういい残して帽子とステッキを伴に、リヒター氏は町へと繰り出した。 広場、店々、駅、どこもかしこも前に前に。 時計の専門店ならば一つくらいはあるだろう、バランスのとれたやつが……そう思って立ち寄った店々でも、後退するものは一つとして見つからなかった。 時計の専門家ともあろう者達がこぞって事の重大さに気付いてすらいない。

「まるで駄目だな」

深い失望と共に家に戻ったリヒター氏は、背中で両手をきっちりと組んで大広間から家中をぐるりと一望した、きっかり二度。

 

このままではバランスが保たれないと考えたリヒター氏は、もう一度自分の書斎に戻るともう一度懐から文明を取り出した。 小さな文明は相変わらず大きさに見合った無機質なリズムを刻んでいる。 もう一度安楽椅子に腰掛け机に向かうと、引き出しからネジ回しやピンセットを大小さまざまに取り出すと、掌の文明をぱかりと開けた。

一人暫くかちかちと不定のリズムを刻みながら、家中の時計は前に前にと進んでいった。 どれ程時間が経ったのだろう、リヒター氏が小さな文明をぱこんと閉じる頃には外からの灯りがすっかりと乏しくなっていた。

 

掌に収められた文明をリヒター氏は満足げに眺めていた。 文明はちこちこと一定のリズムを刻み一歩また一歩と後退していた。 一つくらいはこうでなくては、バランスが保たれないじゃないか、リヒター氏はパイプをふかした。

「これで少しは……」

ふうーと吐き出した煙が、乏しい光の中でふわりと揺れた。

偏屈な人って割りと好きです。ナイスミドルなら更に好きです。

2006.04.24 掲載

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