その鏡がひっくり返る時、身の回りの世界が変わる。
その鏡が、どの鏡をさしているのか知らないが、買ったばかりの手帳の一ページ目には、確かにそう書いてあった。 暦が書いてあったり、世界の記念日が書いてあったり、偉人の格言が載っていたりする手帳はよく見かけるが、これは誰の言葉なんだろうか。 それとも、本か映画かの名言だろうか。
ごく普通に新年用の手帳を買ったつもりであったが、間違えてしまったのか。
小首を傾げながらも、別にページの端の方に小さく書いてあるだけの文言だ。 使い勝手は悪くないから気にしない事にした。
だが、妙に何か引っかかる言葉でもあった。
風呂上り、卓上ミラーを前にドライヤーで髪を乾かしながら、ふと思い出した手帳の一ページ目の言葉――その鏡がひっくり返る時、身の回りの世界が変わる。 聞きなれた騒音を耳元で聞きながら、卓上に置いた鏡の中の自分を見つめてみるも、特に何も変わった様子はない。
昔から、鏡にまつわる不思議な話は星を数えるように存在する。 不吉な予感のするものから、ラッキーアイテムとして幅広く、一種の都市伝説のようなものだ。 光を反射させる特質、あるいは言葉の持つ響きが神秘的であるのは古今東西同じだろう。 今更気にするような事でもない。
「身の回りの世界が変わる、か。 ないない」
「あるある」
ドライヤーの電源を切ってコンセントを抜いた瞬間、独り言に対して返事があった。 振り返っても誰もいない。一人暮らしなんだから、当然だ。
部屋中を見回してみた。 テレビもラジオもつけていない。 コンポもiPodも携帯も触れる範囲にはないし、DSだって放りっぱなしだ。 隣近所かとも思ったが、そんなはっきり受け答えされるほど大きな声ではなかったはずだ。
「疲れてるのかな……今日はもう寝よう」
溜息を吐いて、普段のとおり卓上ミラーを裏返す。 立ち上がって振り返った瞬間、あるはずのない壁に顔面からぶつかった。 半歩退いてよくみると、服だった。
「や、どうも」
頭一つ分、見上げた視線の先で片手を挙げて挨拶をするそれは、服を着た人だった。 二、三度、瞬きをしてから目頭を指で摘んで軽く首を振る。 幻覚だ、幻覚を見た。 とうとう、一人暮らしにも限界がきたのだろうか、精神的な限界が。
目を開けてもやっぱり目の前に立っているソレに、更に深い溜息が出てくる。
「夢だ、夢だ、これは……」
「いえいえ、ちゃんと現実です、現実」
己の顔の前で、大きな掌をひらひらとはためかせている。 身なりは普通に現代風だが、背筋がぴんと伸びてやたらと姿勢が良い。 若いのだろうが、かもしだす雰囲気には若々しさがない。
「ヒトが否定してるんだから、それを否定しないでください」
「現実をちゃんと受け入れてください」
「無理です」
「無理じゃないです」
真面目そうにしているが小ばかにした慇懃無礼な口調と、人好きのする笑顔を浮かべる割には笑っていないであろう目。 案の定、上向いた口角が、ひくりと細く釣り上がり、自ら完璧だった笑顔を崩していく。 笑っていない視線の先を辿ると、行き着いた先は裏返った卓上ミラーだ。
「だって、さっき自分でひっくり返したじゃないですか、その鏡」
「あの……」
「だから、身の回りの世界が変わったんですよ、あなたの」
「仰ってる意味が分かりません」
「言葉の意味を理解するしないより、現状を理解する方が早いのでは」
目の前で、ポケットから取り出された鏡。 それが掌で遊ぶように、くるりとひっくり返ると周辺の景色が一変し、もう一度ひっくり返ると元に戻った……ような錯覚がした。 相当重症のようだ、過労だろう。
「往生際の悪い人ですね、あなた」
「そもそも、あなた誰ですか」
「あなたと同じ体質の人間です。 名前もちゃんとありますよ、リッキー・エルキンと申します」
「別に自己紹介を求めたわけではありませんが」
「そういうあなたは、アリスさんでしょう?」
尋ねるというよりは確認してくるような口調に、思わず眉間に皺が寄る。 ああ、目眩がする。 いっそこのまま気を失ってしまった方が自分のためになるかもしれない。 そう思いながらも、この口は負けず嫌いだ。
「違います。 誰ですか、それ」
「え、違うんですか? 大抵の人は、アリスにでもなったみたいって言うんですけどね、こういう場合」
「知りません、そんな事」
「まあいいや、便宜上アリスと呼びましょう」
「呼ばないでください」
軽く拍手をしながら、どうぞよろしくと片手を差し出し握手を求めてくる。 この手、ハエ叩きで叩いてやりたい。 額を押さえながら、頭一つ分上にある顔を睨みつけると、怖い怖いと、例の人好きする笑顔で返してくる。 もちろん、怖がっている様子など微塵もない。
「まあまあ、そんなツンケンしない、しない。 これも縁ってやつですよ、仲良くやりましょう」
「できません」
「そうは言っても、その鏡はひっくり返ってしまったんですから、ね?」
無理やり取らされた手は確かに現実のもので、人の体温を持っていた。 目の前の食えない笑顔が癪に障るが、握力で負けた手を振り払う事はできなかった。