大きな木を見つけると、ついつい擦り寄っていってしまう。 この子は昔からそうだ。樹齢何百年という大木から、昨年初めての花をつけた若木に至るまで、とにかく視界に入って気に入ったものには、磁石の如くくっついてしまう。
「わー、聞こえる、聞こえる」
そう一人ごちて満足そうに頷いている。 端からみれば、いい年齢になる大人が人目も憚らず木に抱きついている様は、おかしい。 明らかにおかしい。 だが、この子は全く気にしない。昔からそうだ。
「まいど、まいど、何がそんなに楽しいんだか」
「楽しいよ、もちろん。 元気を沢山もらってるんだ」
「元気、ねぇ」
「何?」
「何も」
昔から野生並みに聴覚の鋭いこの子は、色々なものに張り付いては聞こえてくる音を楽しんでいるらしい。 導管が水を吸い上げる音、表皮が擦れあう小さな小さな音、果ては葉っぱが成長する音まで、それはそれは多種多様な音を聞き分けているらしい。
一度、あんまりに勧められるものだから、幹に耳をくっつけて何分全神経を研ぎ澄ませてみた事があったが、何が何やらさっぱり理解できなかった。
「今日も一生懸命生きてるんだよ」
「それはよかったね」
「あーあ、冷たいなぁ。 昔話にあるじゃないか、その昔木に変身しちゃった女の人の話。 あれは木の心臓の音なんだよ」
「こらこら、昔話とごっちゃにしないの」
冷たいだの、酷いだの、口を尖らせながら拗ねた様子で木から離れると、その目はすぐに次なる木の心臓の音を探し始める。 全く、昔から変わらない。 いつの間にか先を歩いてきょろきょろしている後姿を見ていると、ふと遠い昔を思い出した。 思えば、既にあの頃から似たような会話をしていたものだ。
「いい加減やめなさいよ、木にくっついて何が楽しいの」
「楽しいよ。 木が一生懸命生きてるんだよ、凄い事じゃない?」
「ああそう、よかったね」
「冷たいなぁ。 知らないの? 木はね、昔人だったんだよ。 人が木に変身しちゃったんだ。 だから、この音は木の心臓の音なんだよ」
「まさかー。 何言ってるの」
「本当だってば、信じてよ」
あれから何年経っただろう。 何も変わっていない、根本的なところは何一つ。 それがふいと、嬉しくなって、でも微笑ましい馬鹿さ加減に苦笑いを溢す。
次なる標的を見つけたのか、両目をキラキラとさせて両手を挙げて走ってくる様を首を傾げて眺めていると、次の瞬間には正面から突進されていた。
「何、危ないじゃない」
「ほら、同じ音がする。 木も人も、同じ音がするよ。 皆、一生懸命生きているんだね」
そう言って満足そうに頷いている。 この子は時々、酷く曖昧で難しいニュアンスを含んだ言葉を漏らす。 昔からそうだったが、よく驚かされてきた。 そして、それは今も変わっていないらしい。