森の奥、かすかに聞こえた遠吠えに、はっと目が覚めた。 どうしても大きく強く打つ鼓動は抑えられないまま、しばらく息を殺して周囲の様子を窺った。 近くに獣の気配はない事に安堵して、ようやく、ほうっと溜め込んだ空気を吐き出した。
見上げた空は暗く、夜明けはまだまだ先のようだった。 それでも木々の間から瞬く星明かりは、静かに落ち葉に覆われ苔むした地面にまで降り注ぐ。 それを素直に奇麗だと思った瞬間に、足下から冷気に押されるように身震いした。
――冷えるはずだ。真冬でなくて本当に良かった。
思い返せば、アリーセガルト城を出たのは三日前。
まだ夜も明けきらないうちから起こされ、慌ただしく身支度をさせられ、あれよと言う間に朝市へ行く荷馬車に乗せられた。 その中で聞かされた、これは乳母の命を賭けた脱走計画だった。
遡れば一昨年前、父、アリーセガルト方伯ニクラウス・オットーが不慮の事故により没した事が発端だった。 地方とはいえ広大なアリーセガルト領を治め、伯爵位を授かるローエンシュタイン家主の早すぎる逝去によって、方伯家は親類縁者に至るまで俄に騒がしくなった。
一人娘であるエレノア・ローエンシュタインが、相続人として決定してはいたが未だ幼く、娘の後見人が正式に決められていなかった事が騒動に拍車をかけた。
ここぞとばかりに勃発した権力闘争の中でも、特に熾烈を極めたのがエレノアの生みの母にして故方伯の正妻、ゾフィー・グレーテ・フォン=ゼーテと育ての母、テア・ルイーゼ・オーベルマイヤー夫人による後見人争いだった。
二人の母の対立は方伯が健在の頃から、エレノアが物心ついた頃には既に始まっていた。 それぞれの私情と思惑からいがみ合う姿を幼い娘には出来るだけ見せないように気を配り、傍についていたのが乳母だった。
だがそれも夫人たちの対立が深まるに従い、乳母は一介の使用人へと格下げされ、エレノアと関わる事が出来なくなった。 それはオーベルマイヤー夫人によって決定されたが、この件についてゾフィーが口を挟まなかった理由は明らかだった。
両夫人の不興を買う事を恐れて人が近づかないため、エレノアは事実上、孤立していた。 激しさを増す二人の母の争いに巻き込まれ、次第に身の危険に晒されるようになっていく娘を見かねた乳母によって、決死の覚悟で城の外へと連れ出されたのが三日前。
寒さを凌ぐため、地面に穴を掘り落ち葉や苔を敷き詰めた中で眠る夜を、たった一人で過ごして三日。
未だに夢を見ている心地になる。
これは悪い夢で、目が覚めれば自分の部屋の天井が見られると思っている自分自身が心の片隅に居る。
だが、森を吹き抜ける風の冷たさと、木々の葉が擦れる物寂しい音が、エレノアを厭が応にも現実へ引き戻す。
アリーセガルト領内には、もはや安全な場所などない。
まずは無事に、隣接するヴォルカールッツ領へ抜け出さなければならない。 大人の足でも領境まで十日はかかると聞いた。 少女の足で、しかも街道ではなく森の中を進まなくてはならない上に、森には獣や賊も出る。 それでも逃げ延びる方法は、それしかない。 危険を冒して自分を逃がしてくれた人たちのためにも、こんなところで行き倒れているわけにはいかないのだ。
「まずは、今日を生き抜く事」
エレノアはもう一度空を見上げた。
今やるべきは夜明けに備えて体を休める事、日の出と共に速やかに行動を起こす事だ。 幸運にも、この三日の間、天候が崩れる事もなく、獣や賊にも遭遇せずに進む事が出来た。
きっと、このまま巧くいく。
そう信じて進むしかないのだから、心細くても涙は一滴も溢れなかった。
昨日は過ぎ去り、明日はまだ来ない。
夜明けが近づくにつれて一層の冷気を吐き出す大地にうずくまり、もう一度細かく身震いをすると、耳を研ぎすませながら両目を伏せ、夜明けの気配を待った。