散文100のお題

020. 耳を欹てる

メゾン・ド・ミラージュ鑑町505号室に住む山本夫人は、本日もクローゼットを開け放し、ガラスコップを壁に押し当て、それを耳に押し当てていた。 オーソドックスな方法ではあるが、夫人曰く、これが一番良く音が拾えるとの事だ。

時刻は午後10時を回ったあたり。 そろそろ就寝とリビングから戻ってきた山本氏が、まず目に留めるのがクローゼットから飛び出した夫人の大きなお尻という生活が、ここ数ヶ月ずっと続いている。

 

「そう毎日毎日、いったい何をしているんだね、きみは」

「しっ、静かにしてちょうだい! 聞こえないじゃないの!」

 

ご近所のありとあらゆる事情について、根掘り葉掘り隅から隅まで知りたがる夫人の困った好奇心は、最近、504号室に向けられている。 隣に越してきて3 年目という、会社勤めの若い女性だ。 一人暮らしの女性宅をあれこれ探るのも結構だが、物騒な昨今、いつ警察に通報されるか分かったものじゃない。 山本氏は再三やめるよう諭すのだが、夫人はこのとおり全く耳を貸しもしない。

「お隣、最近、男の気配がするのよね。 同棲でも始めたのかしら、ちゃんとつきとめなくちゃ気になって寝られやしない」

山本氏は諦めて先に就寝してしまう。 電気が消されても、夫人は一向に構わずに壁に耳をくっつけている。 聞こえてくるのは付けっぱなしと思われるテレビの小さな音だけだ。 それでも夫人は岩の如く微動だにせず、じっと全身を耳にして待っているのだ。 待つ事更に30分、期待した動きがあった。

 

『この、三月バカーっ!』

突如響いた若い女性の怒鳴り声の後、何かが倒れるような騒音が続き、またしても静まり返ってしまった。 そのうち声が少しだけ近くなり、リビングに移動してきた気配がする。 夫人が目を付けていたとおり、次に聞こえてきた声は紛れもない男のものだった。

『ご近所迷惑ですよ、アリスさん。 ついでに暴力も反対です』

『うるさい、その呼び方やめてって何度言ったら分かるのよ』

『それなら、三月バカもやめてくださいよ。 リッキー・エルキンという立派な名前が……いたっ』

アルミ缶と思われるクリアな衝突音が聞こえた後、不平をたれているらしい低い声がする。

 

「あらあら、外国男を連れ込んでいるらしいわ。 大人しそうに見せかけて、案外遊んでいるのかしら、あのお隣」

山本夫人の解釈は若干現実を歪ませているようだが、そんな事をこの隣人達が知る由もない。 夜分遅くの小さな騒動は、こうやって数日置きに繰り返されている。 実に無防備だ。 そして、決して大声で言い争うわけでもないのに、音を拾える夫人の聴覚も大したものだといわざるを得ない。

 

『大体、三月バカって何ですか』

『わたしがアリスなら、あなたはイカれた三月ウサギで充分でしょ。 何、それとも帽子屋? 笑う猫? マトモじゃなければ何だっていいわ』

『随分な言いようですね、悲しくなります。 私が何をしたというのです』

 

ここでまた何かを投げつけたらしい破壊音がしたが、今度は何を投げたのか音だけでは判別ができなかった。 夫人は小さく舌打ちし、全身を耳にして息まで殺して様子を窺う。 続きが気になって仕方がない。 ただの痴話げんかにも聞こえるが、どうもそうではないらしい。

「ひょっとして、三角、四角関係とかだったりして。 まーっ、何て事でしょう」

色々と想像を掻き立てられて楽しそうだ。 くぐもった忍び笑いが寝室内に広がり、寝苦しいのか山本氏が唸り声を上げた後、背後で寝返りを打つが夫人はお構いなしだ。

『わたしの平和な生活をぶち壊したじゃない』

『それは言いがかりですよ。 お互い体質です』

『科学的根拠もないのに、納得できるわけないでしょう』

『世の中何事も科学で解明できると思ったら大間違いです。 納得してもらわなければ、困ります』

 

『困ってるのは、わたし!』

 

机でも叩いたのだろうか。 どんっという衝撃音の後、またしても暫く沈黙に包まれる。 音だけでは何が起こっているのか把握しきれないのがもどかしい。 いっその事、壁に穴を開けてしまおうかと、夫人はやきもきしながら僅かな音をも聞き漏らすまいと、一層真剣になる。

しかし、それ以上にその夜は何も起こらなかった。 テレビもいつの間にか消されてしまったらしい。 夫人は何やら煮え切らない気持ちのまま、悔しそうに布団に潜り込む。 時刻は既に深夜零時を回っていた。

 

翌日、夫人はいつもの習慣で午前6時には目が覚めた。 ゴミ出しのため、505号室を出ると、ゴミ袋を片手に暫く504号室のドアで聞き耳を立ててみる。 何やら起きている様子ではあるが、何をしているかまでは分からない。

躍起になって立ち尽くしていたが、エレベータが動く音が聞こえ、慌てて戸口から離れてゴミを捨てに行く。 ゴミ捨て場から戻ってくると、ちょうど504号室の住人と出くわした。 夫人の好奇心が一気に天まで燃え上がる。

「あら〜、お早うございます。 今朝は随分お早いのね?」

「あ、山本さん。 お早うございます、今日は早出なもので」

同じ階の住人である事をいい事に、山本夫人はあれこれと質問を連発する。 些細な事でも何か引き出せれば儲けもの、という感覚でとうとう504号室の前まで戻ってきた。 住人の笑顔が少々引きつっているのは見て見ぬふりで、開かれた扉の奥を見極めようと構えていると、思いがけず人影が飛び出してきた。

 

「おや、これはこれは、お早うございます」

寛いだ様子だが、紳士的な態度と笑顔を差し向ける男に、戸口の二人は唖然と立ち尽くす。 直後に504号室の住人が、顔面を引きつらせて紳士を押し込むと、夫人への挨拶もそこそこに、慌しく扉を閉めてしまった。

すかさず扉に張り付いた夫人が耳にしたのは、昨夜同様の叫び声だった。

 

『何やってるのよ、この三月バカーっ!』

 

今夜もクローゼットにて張り込まなくては、夫人は緩む両頬を両手で押さえ、小躍りするほど軽い足取りで505号室に飛び込んでいったのだった。

散文100のお題013「鏡」とリンクしたお話しです。

2009.04.23 掲載

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