05.フェルドベンの頼み---ヴェルクエ・ノス・フェルドベン
老人二人にきっぱりと師匠に向いていない事を肯定されて、マグレオンはヘソを曲げてカップに残った茶を一気に飲み干すと、そのまま席を立った。
「どれ、ちょっと子供達の様子を見てくる事にしようか」
外套掛けから自分のばさばさ、ぼろぼろの外套を取り出すと、羽織りざまに外へと出て行く。 そんな老人の後姿を見送りながら完全に気配が遠くに行くまで沈黙を守っていたレクヤーマスを盗み見て、フェルドベンは「やれやれ」と呟いた。
「奴には、本当に手を焼くわ」
「マグレオンを追い出してまでとは、一体どんな頼みがあるというのだね?」
気を付けて言葉を選んでいるのか、レクヤーマスの口はゆっくりと言葉を吐き出した。 一方のフェルドベンは呟いた後に溜息を吐いて、カップの中の茶をじっと眺めていた。 それからゆっくりと口を開いたが、やはり糸を紡ぐような慎重な口振りだった。
「遠まわしに言わなくても分かっておる。 マグレオンにここまでの道案内をさせておいて、と言うのじゃろう?」
「そう実も蓋もなく言われると……」
「実は、お前さんにラスタムを預かってもらいたいのじゃ」
「預かる? あの子を?」
レクヤーマスは目を見張った。 自分で出来る事は人に頼らずとも何でも自分でやってきたフェルドベンだ。 それが、遠方にいたにも関わらず、あえて自分に相談を持ちかけてきたのだから、ただ事ではないと思っていたが、まさか……
「一体、どうしたというのだね? まさか教育を放り出すわけでもあるまい?」
「違う、それだけは決して無い」
「だろうね、君がそんな無責任な事をする筈がないからね」
魔術師を育てると簡単に言うが、当然の事ながら並大抵の苦労ではない。 自らの研究の為の時間すら費やしてもまだ余る。 文字通り、命を掛けるような想像を絶する過酷な仕事だ。 そうまでしても、最終的に魔術師として一人立ちする者はほんの一握りしかなく、多くは途中でその道を諦めてしまう。 その現実を知っているからこそ、フェルドベンは今まで一人も弟子を取ってこなかった。
――そんな、育つか育たないか分からないような教育に、己の時間を費やす気には慣れない。 そんな時間があれば、わしは世界の根幹に関わるような研究に費やすぞ。
レクヤーマスが弟子を取ろうか悩んでいた時にも、フェルドベンはきっぱり断言したものだ。
だが、一度決めれば何があろうと最後までやり通すのも、またフェルドベンの気質だ。 それこそ、途中放棄など考えられない。 そう思ってこの友人が口を開くのを、レクヤーマスはひたすら待った。
「嘆きの時代というものを知っておるか」
「嘆きの時代?」
「生けとし生ける物全てを脅かす、古の暗く哀しい時代じゃ」
「何かの文献で読んだ事がある気もするが……すまないね」
「気にするな、わしとて何から何まで知っているわけではない」
そう言ったきり、フェルドベンはまた長い事沈黙した。
やはり、ただ事ではない。
言いたい事は遠慮せずに言い、言の魔術師であるレクヤーマスも思わず聞き入ってしまう程、雄弁なフェルドベンが真剣に言葉に迷っている。 レクヤーマスの懸念は、驚きと共に確信に変わった。
「さて、よほどの事情があるんだね。 無理に言おうとしなくても構わないよ、わしも薄情ではないつもりだからね。 心配せずとも預かるとなれば、勿論きちんと責任を果たすよ」
フェルドベンは小さく笑う。
「遠路遥々来てもらったというのに、すまん。 ラスタムの事なら心配はしておらんよ。 お前さんは過去にも立派に魔術師を一人立ちさせている、安心して任せられる。 ただ、やはり預かってもらう以上は、わしにもちゃんと説明する責任がある。 もう少し待ってくれないか、今まとめているところじゃから」
レクヤーマスが目元と口元に穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「あれ、老マグレオン! どうしたの?」
ダイオン少年が近付いてくる老人に先に気が付いて手を振る。 走りはしなかったが、老人は片手を上げてそれに応えた。 程なく間近に迫ってくると、子供達の方から駆け寄っていく。
「石の老、お話は済んだのですか?」
「いやいや、ちょっと休憩を挟んどるだけだ、お前さん方の先生はまだ取り込み中らしいがな」
「何の話をしてるんだろう?」
「さあな、お呼びでない者は大人しく引き下がるに限るんだ」
「あ、それって老マグレオン、追い出されたんだね?」
ダイオンがけらけら笑って老人をからかった。 老人は節くれだった指に力を込めて少年の頭を一回小突く。
「あいてっ」
「まったく、言葉の悪がきだな、お前さんは。 大人しく追い出されてやる方が良い事もあるんだぞ」
「分かってるよ、そんくらい、ちょっとからかっただけじゃないか。 あー、痛かった」
すっかり不貞腐れたようにダイオンが口を尖らせる。 小突かれた頭を抑えながら、少し大袈裟に痛がってみせる姿の子供らしさに、老人は片手を引っ込める。 またいつでも繰り出してきそうではあるが。
「これに懲りたら軽口には気を付けるんだな、ダイオン?」
「はーい……ちぇ、つまんないの」
まだ言うか、老人はもう一度軽く少年を小突いた。
「ところでラスタム」
「はい」
「お前さんの方は、その後、調子はどうだ?」
再び、ぶーぶー言い出したダイオン少年を片手で抑えたまま、老人は大人しく黙っていたラスタムを振り返る。 全く対照的に控えている姿は、その昔初めて会った頃と何ら変わっていない。 それが少々心配でもあるのだ。
「相変わらずです」
「そうか、身体も大丈夫か? ちゃんと食べさせてもらっとるか? やつは本当に誰かが見ててやらんと何もせんからな」
「大丈夫ですよ。 先生も、相変わらずです」
少し可笑しそうにラスタムが口元を綻ばせる。
「そうか、なら良いのだが」
そう言いつつも、ラスタムの目には何故だがマグレオンが腑に落ちないような表情をしているように見えた。
「先生が、どうかしたんですか?」
「いや、そんな事はないぞ」
けろりと平然を装ってマグレオンはラスタムを見おろした。 片手ではダイオン少年が、じゃれつく猫よろしくジタバタしているが、何とも楽しそうだ。 ラスタムも、これくらい無邪気だと有難いのだが、こちらが気を抜くとこの子の目は何でも見通してしまう。 その洞察力は人間の比ではない。 そして、加えてとても勘の鋭い子だ。 あるいは既に、何かに気付いているのかもしれない。 老マグレオンも感じ取った、フェルドベンの違和感に。