裂けた大地の物語

石と風と言葉---トン・ゼフュー・フ・ローグ

06.鏡の大地---ダール・ミランダ

海から吹く風が俄かに弱くなった。 さっと子供たちの頬と老人の外套を掠めて大地の上を撫でていく。 海が凪いで波音が一段と静かになったのが感じられた。 吹き止んだら風の向きと潮の流れが変わるのだ。

「いい光景だな」

老人が目を細めてキラキラと反射する大海原を眺めている。

「もう少し待てば、鏡みたいになるんです」

「ほう、海なのに、か?」

「はい、ここはそういう海なんです。 この季節の決まった時間帯にだけ、鏡みたいになるんです。 今日はお天気が良いから、見られると思います」

何色ともつかない瞳が、じっと海を見つめている。 その少しだけ尖った耳はじっと風の気配に注意しているのか、時折はっとしたように動いた。

 

風が止んだ。

「へぇ、本当だ鏡みたい!」

「ほぅ……、これは」

客である老人と子供は、目の前に広がった一面の光景に思わず感嘆した。 俄かに信じ難い光景だ。 大海原が微動だにしない。 まるで光輝く大地が何処までも続いているような光景だ。 全くの無風状態になり、海は均等に反射して大空の青さを映し出す。 世界が空に染まったようだった。

「綺麗だなぁ!」

「不思議なもんだ」

完全に凪ぐ時間というのは、まちまちなのだそうだ。 僅か数十秒の時もあれば、数時間に及ぶ事もあるという。 今日はその間を取ったように数十分間の鏡だった。 風が戻り、波が帰ってくる。 じきに囁くような泡波の音が心地よく耳に響いてきた。

「もう終わっちゃったよ」

「ふむ……」

明らかに不満げな様子で呟くダイオンと、表立っては平然としている老マグレオンだが、やはりがっかりしている感は隠せなかった。 そんな二人を眺めながら、ラスタムは少しだけ肩の力を抜いた。 また海に目を凝らすと、潮の流れが変わり始めた事を確認した。

 

「君と風の老は、本当に素敵な所に棲んでいるんだね。 僕生まれて初めてだよ、あんなの見たの!」

 

ダイオン少年は無邪気に笑顔を向けた。 そして茶目っ気を含んで付け足した。

「ま、交通の便は悪いけどね」

確かにその通りだ。 毎日見慣れた景色も、これ程までに喜ばれると、改めてその良さを実感するものだ。 ラスタムは無言でこそあったが、にこりと口元を綻ばせて頷いた。

「確かになかなか見られるものでは無いからな、貴重な時間だ」

 

「ああ、そうだ昔話にこんな光景あったよね!」

ダイオンが突然生き生きと両目を輝かせて、ラスタムと老マグレオンを交互に見る。 ラスタムは意味が分からずに小首を傾げるだけだったが、老マグレオンは明らかに視線を逸らした。

「さあ、あったかのう?」

「あったよ! ほら、鏡の大地だよ! 英雄とか勇士とか、大きな功績を残した人だけが踏み込めるっていう幻の!」

「そう、言われとるな」

「僕、デーミランの冒険の話、一番好きだよ! 将来は僕もあんな風になるんだ!」

意気揚々と語るダイオン少年を見て、老マグレオンはわざとらしい深い溜息を吐いた。

「やれやれ、また始まった……」

突然何十年も一気に老け込んだような老人の横顔を、不思議そうな顔をして見上げてくるラスタムに気が付いて、老人はダイオンには分からないように片目を瞑って教えてくれた。

 

「やつは何かあると、すぐデーミランの話を持ち出すからな。 話題を振ると延々と語りだすぞ、気をつけるんだ」

 

そう聞かされてからダイオンの方をもう一度見ると、何だか妙な可笑しさが沸いた。 既にダイオンは両眼を見開いて、先程の海の如くキラキラと輝かせている。 しかも誰も相手にしていないというのに、海に向かって大音量で熱く抱負を語っていた。

「迂闊に話しに乗ると、丸二日は睡眠すらロクにとれんからな」

俄かに当時を思い出したのか、老人の吐く溜息が一層重たくなったように感じたのは、きっと気の所為ではない筈だ。

「よほど好きなんですね、デーミランの冒険の話」

「ああ、ほとんどデーミラン馬鹿と言ってもいい」

確か、先生の本棚にもあった筈だ……ずっと前に読んだ記憶がある。 何処だったか……ああ、そうだ、物語なのに珍しく地歴系の本群の中にあったから、どうしてだろうと思って読んでみたのだった。

 

家の事ならペンから家裁道具に至るまで把握済みのラスタムだ。 恐らく家の主よりも詳しくなっているかもしれない。 つい先日も書庫を片付けたばかりだから、まだあの本棚にある筈だ。

「もう一度、読んでみようかな」

ぽつりと呟いたラスタムの小さな声を、ダイオンはしっかりと聞いていた。 風下に立っていたのは確かだが、それだけが聞き取れた理由とは到底思えなかった。 振り返った少年の目は、それこそ鏡の大地を上回るくらいの光線を放っていた。

「わしは……知らんぞ」

もうお手上げだと言わんばかりの老人の声は、空しく風に運ばれて海の彼方に飛ばされていった。 その傍らに立つラスタムは少年の両眼を見た時、ようやく老マグレオンの言葉の意味を理解できた気がした。

そして、当のデーミラン馬鹿と称された少年は、ラスタムに向かって大きく両腕を広げ、また大地に響き渡るような高い声で、朗々と物語の一説を吟じたのだった。

 

「おお、友人よ、気高き戦士よ、これより我らは生涯の同志となるのだ!」

 

「……」

「……」

 

「何じゃ、今のは?」

家の中に残っていた老人二人の元まで届いた声は、彼らに一瞬の沈黙の後、はてと小首を傾げさせた。 レクヤーマスが思わず苦笑を漏らしたのを、傍に居た友人は見逃さなかった。

「ダイオンだよ」

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.10 掲載(2012.01 一部加筆修正)

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