07.風が知らせる---ゼヒュランティ
窓の外を眺めて子供達と老人が仲良くやっている様子を確かめた後、フェルドベンはゆっくりと口を開いた。
「最近、風の流れが変わった」
「そうなのかい?」
全く気付かなかった、とレクヤーマスは俄かに目を見開いた。 フェルドベンは静かに首を振り、もっと静かに言葉を紡ぐ。
「驚くような変化は起こっておらんよ。 だが、風と語らうわしには、それは確かに変化なのじゃよ」
「どういう変化なんだい、それは?」
「お前さんは、風をどう思うておるかな。 多くの者は、風とは気まぐれなものだと思うておる。 だが、実際はそうじゃない。 海を渡り、大地を滑って世界中を走る。 やつらは実に働きものじゃ」
「うん、それで?」
「そのやつらの働きが……動きと言うた方がよいかな。 ほんの僅かに、それこそ薄紙一枚分以下程だが、鈍り始めた。 端から聞けば大した事じゃないかもしれぬ。 実際、大した事にならぬかもしれぬ。 だが、わしにはどうも……そうは思えないのじゃよ」
フェルドベンの表情が曇る。 漠然と何かに危機感を抱いている様子だが、当の本人にもそれが何なのか掴めないでいる。 もしかしたらそう思う事すら唯の取り越し苦労なのかもしれない、という風だ。
長年フェルドベンを見てきたレクヤーマスにとって、それはとても意外な姿だった。
「風の老である君が言うのだから、そうなのだろうね」
だが、レクヤーマスはフェルドベンの力量を充分承知して、またこれ以上無いくらい信頼している。 だから、彼が憂いているのなら、それは恐らく軽視してはいけない何らかの予兆なのだ。
「わしの言葉を信じてくれてありがとう……と言いたいところじゃが、仮にわしの危惧している事が現実となれば、今日まで大地が培ってきた全てが覆されるやもしれぬのじゃ」
「何だって?」
穏やかに机の上で組まれていた両手が、強張ってパチンと鳴ったのをフェルドベンは見逃さなかった。 だからと言って、それを表に出すような事はしなかったし、むしろ見なかったように装うのだ。
「あ、ああ、すまないね、つい力が入ってしまった」
「いや、わしこそ、言い方が悪かった。 あくまでもわしの勝手な憶測に過ぎぬと言うのを重ねて言っておく」
まるで音を立てない波のように、フェルドベンは静かに目を伏せた。 だが、無責任に人を煽動するような言動をした事がないフェルドベンの言葉だからこそ、レクヤーマスには余計に大きく響いた。 それも、わざわざマグレオンまでを遠ざけて話すのだから。
「何の確証もなく君がものを言う筈がないからね、何かあるのだろう?」
「その通りだ。 わしの漠然と考えている事、そして言いたい事は朧げながら『嘆きの時代』に繋がっている気がするのだ」
嘆きの時代において 未来や希望といったものは全て無に帰す
大地に生きる者全てから それらをそっくり奪い去ってしまう
音も無く 気配すらさせずに
しかし確実に一つ一つ葬り去ってゆく
そうなれば
人も獣も生あるものはことごとく
知らずのうちに不安や絶望の淵に追いやられ
そこから叩き落されてゆくだろう
不和や疑念にかられ やがて大地からは怒りの渦が巻き起ころう
否応無く 生きるもの全てが呑み込まれてゆく
海にも空にも大地にも 深い悲しみが満ちるだろう
フェルドベンはゆっくりと確実に、けれど何処かまるで歌うように朗々とした声で言葉を紡いだ。 レクヤーマスには、それが旅芸人の吟じる古い時代の唄のように聞えた。
「その嘆きの時代の予兆が、既に南の大地では起こっている」
「南の? それは一体」
「
「オンっ……そんな、まさか」
そら恐ろしくて、瞬時には言葉に出す事が出来なかった。 それは言の魔術師であるが故の回避本能だったのかもしれない。 束の間目を白黒させていたレクヤーマスが、何とか平静を取り戻した時、フェルドベンは確信に満ちた目を向けて一度だけ頷いた。
「言語を専門に扱うお前さんじゃ、口に出すのを躊躇って当然じゃろう。 だが、わしは実際にオンズ共をこの目で見ておる。 そして、わしがあの子を拾った日の前夜にも、やはり彼の地で目撃しておるのじゃ」
「ラスタムは、そんな所で?」
「ああ、あの子が生きていたのは奇跡じゃと思うておるよ。 既に南の地ではオンズ共が彷徨っておる。 わしはすぐにでも調べねばならぬと思うておるのじゃ、研究は進めておる。 あれから二十年じゃ、状況も変わっておるじゃろうな」
「君一人でかい?」
低く尋ねるレクヤーマスの声音も視線も、無茶だと語っていた。 フェルドベンは、やはり一度頷くだけだ。
「お前さんには弟子がおる。 そりゃ、わしにもおるが、あの子を道連れにするわけにはゆかぬじゃろう。 かといっていつ帰るとも分からぬ旅で一人にしてはおけぬ。 マグレオンは良い奴じゃが、話せば必ず反対するじゃろう。 だが事態は一刻を争うものかもしれぬ故、奴を説得している時間が惜しい。 岩をも黙らせる頑固者じゃからな」
確かに。 不謹慎ながら、レクヤーマスも心の中で同意した。
「しかし、そんなに性急に……事を焦って仕損じたらどうするのかね」
「性急ではないぞ、かれこれ五十年は研究を続けてきた。 そして今、とうとう風が変わったのじゃ、これ以上待ってはおられぬよ」
ただ、気がかりなのは弟子だけじゃ。 フェルドベンはそう漏らした。
「上手く隠してきたつもりじゃが、なにぶんあの子は賢い子じゃ、恐らく薄々は感づいている筈じゃ。 それでもやはり連れては行けぬ」
「確かに、もしそうなら一人にもしておけないね」
溜息と共に出した結論に、フェルドベンは感謝した。 この短い時間の中で、レクヤーマスは、およそ無期限とも取れる間、ラスタムを預かる決心をしたのだ。