裂けた大地の物語

石と風と言葉---トン・ゼフュー・フ・ローグ

12.大事な話---バクサーノ・アコント

夜遅くなってみんな寝静まった頃、師であるフェルドベンが書庫に降りてきた。 ラスタムはそこで一部だけ明かりを灯して読書に没頭している最中だっただけに、一つの明かりが近づいてきた時は思わず驚いてしまった。

「部屋に行ってみれば返事が無いからどうしたのかと思ったぞ、またここにいたのか」

気まずそうに見上げてくる子供に、思わず眉を顰める師匠だが怒ったりはしなかった。 弟子の方は、それが何だか引っかかった。

「……すみません」

「今日は突然の事で忙しかったろう、疲れて眠くはないか?」

「なかなか眠くならなかったので、眠くなるまでここで本を読んでおこうと思いました」

「月はとうに天上を過ぎておるぞ?」

「それでも眠くならなかったんです」

「そうか」

フェルドベンは明かりを床に置いて、自分もその場に腰をおろした。 弟子は本を閉じて傍らに置いた。

「先生は、どうかなさったのですか?」

 

「ああ、お前に話さなければならない事があるのじゃ」

 

元々物静かな師匠だが、今度ばかりはその横顔がまるで別人のように見えた。 静かなのではなく、沈んでいる顔だった。 それも、まるで今生の別れを意味するような、ラスタムには、そんな表情に見えた。 すぐ目の前にいる筈なのに、この距離の遠さは何なのか。

 

「わしは暫く家には戻らぬつもりじゃ」

 

「え?」

どう考えても切り出し方に問題があるとしか思えない話し方だ。 普通ならとっさに意味が理解できずに、ぽかんとするだろう。 特に子供であれば尚更何を言っているか分からなかった筈だ。

だが、ラスタムはそうではなかった。 ただの子供ではなかった。

人間モルで例えればたかだか十代半ば過ぎの子供に相当する年齢だが、実際の年齢は既に九二歳。 もとより早熟で頭の回転の速い子供だ。 フェルドベンもそれを充分理解しているからこそ、単刀直入に要件から話したのだ。 だからこそ、ラスタムは師匠の表情から今生の別れのような何かを感じた。

 

「お前は薄々勘付いていたかもしれんな。 だからこそ何故今頃わしが家を出ようと言うのか全て話そうと思う」

いくら物分りが良いとはいえお前はまだ子供だ。 最後まで聞くのが辛いかもしれぬ、その時は言いなさい。 フェルドベンはそう断ってから、ラスタムの表情を観察するように目を細めた。 早熟な弟子は、一度だけ頷いて真っ直ぐ師匠を見上げた。

 

「お前は勇気のある子だな」

 

では話を続けよう。 フェルドベンは昼間マグレオンを追い出してまでレクヤーマスに話した事を、同じように全て弟子にも話して聞かせた。 悪鬼オンズの下りで、ラスタムは俄かに強張ったが、師匠の話を中断させようとはしなかった。

「オンズの恐ろしさは、お前が一番良く理解しているじゃろう。 わしは何故オンズがこの世に現れ、また各地に広がっているのか知りたいのじゃ。 知るだけじゃなく、どうしたらこれ以上の拡大を防げるのかを調べたいと思うておる」

危険な旅になる……師匠の目は黙したままそう語った。 その意味を、ラスタムは痛い程理解していた。 昼間聞いたマグレオンの言葉が、くるくると何度も弧を描く。

自分は、ただの足手まといでしかない――そういう事か。

「はい……」

そして返した短い言葉の中には、大人びていながらどこか物寂しげな色が混ざっていた。

「ありがとう」

礼を言う己の喉がまるで干乾びたようだった。 いくら九二歳であるとはいえ、森霊ファリでいえば、まだ成人すらしていない年齢の子供だ。 純血の森霊ならばもう魔力を現す時期なのだろうが、人間の血が半分体に流れているラスタムには、まだその兆しは見えない。

魔術師マゼウスとしても一人立ちするのは、まだ随分先の話になるだろう。

 

故あってフェルドベンの所へ流れ着いたラスタムだ。 森霊と人間との間の子である事以外、詳しい生い立ちも本名すらも明かさない。 だが、それだけでも並ならぬ苦労をしてきたであろう事は容易に想像がつく。 そんな子供が文句や愚痴の一つも漏らす事無く、ただ一言「はい」と答えたのだ。 幼い弟子の胸中を思うと、頭の先から締め付けられるようだった。

「分かってくれるか」

皺だらけの細くなった手で、フェルドベンは静かに何度も弟子の頭を撫でた。 何度も、何度も……

 

「お前の事はレクヤーマスが引き受けてくれる。 ダイオンもおる。 勉強にはしっかり励みなさい。 お前は立派な魔術師になる器だ、埋もれさせるな」

 

「はい……」

 

フェルドベンの言葉は、まるで遺言のようだった。 だが、あまりにも不吉すぎるのでラスタムは密かに心の中で否定した。

夜はますます深まり、波の音すら聞こえなくなった。 またやってきたのだ、風が止まり海原が凪ぐ時間が。 月明かりに照らされて、何処までも続く大地のような平面の先に真っ暗な未知の世界が広がるのだ。

早く風が戻ってこればいい。

早く波音が帰ってくればいい。

人間の何倍もの感度を持つ森霊の耳が、遥か彼方に向けて研ぎ澄まされた。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.11 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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