裂けた大地の物語

石と風と言葉---トン・ゼフュー・フ・ローグ

13.新しい朝---ネオニッサ

その朝の明けるのが、どれ程長かった事か。

真夜中をとうに過ぎていた時刻に師フェルドベンに促されて書庫を後にした。 部屋に帰ったが、その後もどうしても眠る事が出来なかった。 布団を頭から被ってみても、枕に顔面を沈めてみても、 両手でまぶたを押さえつけてみても、やはり眠る事が出来なかった。

諦めて天井を見つめていると、頭の中では書庫の風景が蘇ってくる。 師匠の放った一言、一言が耳の内側から沸きあがって、あたかも今現在話を聞いているような錯覚を起こしそうだった。

耳を塞いでも、無駄である事は分かっていた。

なぜなら声は自分の内側から聞こえてくるのだから。

 

先生はずっと待っていたのだ。 旅に出る時期をずっと窺っていたのだ。

それが今まで叶わなかったのは――自分がいたからだ。

 

ラスタムは音を立てないように起きだして、そっと窓を開けた。 海風がさっと室内を駆け巡って再び出て行く。

波は静かに穏やかに鼓動している。 その音にじっと耳を傾けた。 両目を閉じてただ聞き入っていると、少しずつ思考回路が緩慢になり、そのうちに真っ白になった。 体の中から内臓とか筋肉組織とか、そういったものが全て取り去られ、ただ波の音に合わせて真っ白に鼓動している。

どのくらいそうしていただろうか、まぶたの裏が明るさと暖かさを感じはじめた。 ゆっくりと明るさに慣らすように開かれた目にほんのりと白みを帯びた空と、その下を何処までも這う大地が飛び込んできた。

 

夜明けだ。

 

どんどんと明度を上げる空の早さに付いていくのは大変なようだ。 大地はまだ蒼白とした空気の中で眠っている。 それでも確かに息遣いが感じられた。 何て大きな生き物なのだろう、この大地は。 その生き物の背中の上に自分はいるのだ。

 

夜が明ける……長い長い夜が、明ける。

 

崖の下の方から海鳥の鳴く声が聞こえ始めた。 丘の向こうの林から別の鳥の囀りが聞こえる。 海の下で潮を掻き分ける魚の気配がする。 土の下で蠢く虫の気配がする。

家の中を振り返り、じっと黙って耳を澄ましてみる。 まだ眠っているのはこの家だけだ。 この家だけが、まだいびきをかいている。

(こんなに綺麗なのに、見ないなんて勿体ないなぁ)

こっそり部屋を抜け出して、裏口から外へ出た。 外に出ると一層外気が冷たくて、深呼吸をすると肺が少しだけ驚いたが、ラスタムはとても清々しい気持ちを得た。 そして何かに誘われるように空を見上げた時、俄かに信じがたいものを見た。

 

それは一見すると鳥ほどの大きさだったが、とても高い所を飛んでいるもっと巨大な生き物だった。

 

並外れた五感を持つ森霊ファリの血が一瞬熱く、しかし氷のように沸きざわめいたのを感じた。

 

硬い鱗に覆われた肢体はしなやかに風を切っていた。 まるで流星のようにぱっと瞬いて天空を横切った。 その背に生えた両翼が堂々青空に広げられている。 まるで風そのもののように微動だにせず飛び去っていった。

驚きすぎて声にすらならなかった。

 

ルドンだ……まだ生きていたんだ)

 

古い書物や資料でしか見た事がなかった。 そしてそのことごとくが既に死滅するか遠くの地へ飛び去って久しいと書いてあったというのに……

(逸れルドンだったのかな)

もしそうだとしたら自分と同じだ。 でも、飛び去った先には何があるのだろう? 故郷だろうか、それとも見も知らぬ土地なんだろうか。

 

自分はどこへ行くのだろう。

言の魔術師やダイオンと共に行くというのなら、この地を離れなければならない。 裏の畑も、森も、海も、何もかもから離れていかなければならない。 ただ待つだけなら、自分はここにいたっていい。 先生が帰ってくるまでここで待っていればいい。

しかし、それは叶わない事だ。

先生は魔術師になれといった。 その素質があるから自分をここに置いてくれていた。 本来弟子なんかとらない人だったと、石の老がずっと以前に話してくれた。 先生は自分の時間を割いてまでラスタムを弟子として教育してくれていた。 それだけの価値が自分にはあると先生が判断したからだ、誇りに思え。

石の老はそう言ってくれた。

だけど、本当にそんな素質や価値が自分にあるだろうか。 曲がりなりにも森霊ファリの血が流れていても、未だにその証は現れない。 半端者の自分が本当に?

 

わたしは……誰の言葉を信じたら良いのだろう。

 

もう一度深くゆっくりと深呼吸をして空を見上げてみた。 大空を横切った、あの堂々とした古の知恵者の姿は既にどこにもなかった。 日はどんどんと上がり、丘の向こうから光明の塊が顔を出していた。 加速度的に周囲は明るくなり大地を暖めていく。

「もう戻らないと」

そろそろ誰かが起きだした事だろう。 朝食も作らないといけない。 そして……出発しなければならないのだ、どこへ続くとも分からない先へ。 今の自分には決められた道を行く事しかできないのだから。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.11 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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