15.石の老の怒り---オウグル・ノス・マグレオン
朝食時はとても穏やかだった。 海鳥の卵はとても美味しかったし、食卓は和んでいたし、人数の多さを除けば普段通りの朝の風景だった。
フェルドベンは普段の通りにお茶の入った器を傾けている。 まるで何事も無かったかのような平静さだった。 そんな師の横顔をこっそりと盗み見て、ラスタムは自分の卵に目を落とした。 平静を装っているのか、それとも平静そのものなのか、俄かに分からなくなった。
ダイオンの師レクヤーマスの方をそれと分からぬように盗み見ても、やはり昨日と何ら変わらぬ態度だった。 穏やかに笑い、友人たちと会話を楽しんでいる。 そんな師匠に戸惑いを覚えているのは、むしろ弟子の方だった。 ダイオンは時々ほんの僅かに眉を顰めてラスタムと視線をかち合わせた。
ほんの些細な事だった。
唯一何も知らない石の老にはせめて悟られないように、弟子たちは心がけた。 恐らく師匠たちもそうしたいに違いない。 そうでなければ、これ程普段のとおりを装って同じ食卓には着けなかった筈だろうから。
このまま何事も悟られず、客人たちはこの家を去ってゆく筈だった。 食事が済んで食べ終わった食器を台所に引き上げていこうとした時だった。 石の老が最後に器の茶を飲み干し卓上に置いた音が、まるで地面に真っ直ぐ落ちるような衝撃をはらんでいた。
「どうしたのだね、マグレオン?」
一足先に済んでいたレクヤーマスはまだ席に着いていた。 柔和な面に驚きを表して友人を見て尋ねるのを全く無視して、石の老の目は席を立とうとしたフェルドベンに向けられていた。
「マグレオン?」
もう一度尋ねるレクヤーマスに、相変わらずフェルドベンから視線を外そうとしない石の老は重たい嘲笑を含んだような溜息を吐き出した。
「どうした、だと? わしをあまり見くびらんでもらいたいわ。 フェルドベン、どういうつもりだ?」
「何がじゃ?」
半ば席を立ったフェルドベンは白々しい返答をよこす。 その短い一言には介入を許さない冷たく厳しい響きが感じられて、事情を熟知しているレクヤーマスはひやりとした。 案の定、マグレオンの実齢よりもぐっと力強く見える眉が眉間を軸にして釣り上がった。
「とぼけんでも分かるだろう、わしが気が付かんとでも思っとったのか?」
直接的なものの言い方を避けたが、マグレオンの両眼は不安げに後ろを振り返ってその場に凍り付いている子供たちに向けられ、一瞬後に再び完全に席を立ったフェルドベンに戻された。
さすがに風の老はそれ以上の言い訳や知らぬ振りをしようとは思わなかったらしい。 だが、代わりに発せられた言葉は余計に石の老を怒らせただけだった。
「問答無用じゃ、もう済んだ事をとやかく言うな」
「もう済んだ事だと? よくそんな言葉を吐けたものだな、お前は目の前にいるお前以外の者の事を何だと思っているんだ!」
誰の事を差しているのか、そんな事は考えずとも明解だった。 だが、フェルドベンはゆっくりと静かに周りの人々を一瞥しただけだった。
「だから、もう済んだ事だと言っておるのじゃ、わしらの話し合いはもう決着が付いておる。 今更大事のように言うのはよさんか、マグレオン」
それ以上は取り合おうとせずフェルドベンは席を離れ、そして部屋を出て行く間際に弟子に一度だけ視線を合わせたが、一言も発する事無く目の前を歩き去った。
「わしはまだ納得しとらんぞ」
部屋を出て行った直後を追おうとしたマグレオンを引き止めたのは、他ならぬ風の老の弟子だった。 まるで殴りかかっていきそうな勢いだったものだから、本来なら失礼に当たるとは理解していた筈だが弟子の手は服を引っつかんで行く先を阻んでいた。
両手の上に置かれていた食器の類は床に落ちて耳の痛い騒音を撒き散らし砕けてしまった。 それでも足元を気にする事無く、両手は必死で石の老の服を掴んでいた。
「……ラスタム、まずいよ」
ダイオンがそっと呟いて肘をつつく。
「あ……」
それで我に返り、ラスタムは慌てて指を開いた。
「し、失礼いたしました!」
頭を下げて謝る幼い子を、さすがに怒ろうとも責めようとも思わなかった。
憤りを抑える為に一度深くゆっくりと長い深呼吸をすると、石の老はこの小さな魔術師の卵の頭を節くれだった手で撫でた。
石の老は何も言わなかった。何も言わずに出て行った。
「怪我は無いかね? 早く片付けてしまわないと」
レクヤーマスはどこまでも静かで優しい態度を崩さない。 ラスタムは黙って頷いてしゃがみ込むと割れた器の欠片を拾い始める。 老人もその場に腰を屈めると、皺の刻まれた指で一つ一つ破片を拾い上げた。 少年が慌てて箒と割れ物入れを取りに台所へ引っ込んでいる間、レクヤーマスは静かにもう一人の弟子に話しかけた。
「今は……我慢をするしかない時かもしれない、事実フェルドベンはここを去ってしまう。 けれど、先程のとっさの行動は間違いじゃない、彼はここを去る者ではないよ」
「……」
顔を上げた子供の目の前には小さく微笑む老人の顔があった。 その顔は笑顔と言って良かったけれど、その中心にある目は決して笑ってはいなかった。 子供が何も言う前から、老人の目は真っ直ぐに「行きなさい」と告げていた。
ラスタムは素早く立ち上がり、老人の出て行った戸口から外へ飛び出していった。 その小さい背中を見送って開かれた玄関を眺めていると、ダイオン少年が両手に掃除用具を持って帰ってきた。
「あれ、ラスタムは?」
「今出て行ったところだよ、大丈夫ちゃんと戻ってくる。 二人とも」
さあその前にここを片付けてしまおう、師匠はそう言ってまだ呆然と立っていた弟子を急かした。