裂けた大地の物語

知恵の巨人---エングス・イエスト

03.深き哀しみと会う---ソール・ジス・エスベル

幾千年、泉の畔に潜むルドンは、幾千度となく夢を見た。 夢の中では、自分はルーゴーという名の巨人イエストであった。 愉快な仲間と、楽しい家族と、そして大切な恋人もいた。 毎日、朝から日の入りまで仕事をし、野菜を育て、毎年の収穫の時期には村を上げて祭りを行うのだ。

大声で歌い、踊り、呑み、食べ、大いに盛り上がって夜を明かすのだ。 自分は仲間達と肩を組み、いつまでも語らい、大声で笑いあっていた。 そんな空気の中で、ルーゴーは幸せそうだった。……幸せだった。

 

枯れた古木の根が揺れた。 唸るような、軋むような、耳障りな音が響いてきて、竜は目を覚ました。 そして、幸せな夢も終わった。 首をもたげる頃には、夢を見ていた事すら忘れてしまっていた。

 

冷たい空気が鼻腔の奥を刺激する。 竜はそこで、大きなくしゃみをした。 そして目を開けると真っ先に泉の水が満杯である事を確かめる。 今日も、昨日と同様に相変わらず静かに、とうとうと湧き上がり小さな川を作っている。 その水を一口飲むと、竜は振り返り今や根しか残っていない古木を見た。

この、気の遠くなる程の長い年月を経て、竜は古木と会話をする事を覚えた。 すっかり枯れてしまっているのに、古木はそれでも語りかけてくるのだ。

「今日は、何だ、古木?」

『お前は、いつまで、そうしていられるだろうか?』

「何だ」

竜は首を傾げた。 動くたびに重たく硬い鱗が軋んだ音を立てる。 まるで、不愉快だと言わんばかりに、俄かに攻撃的に擦れ合う。

「死に損なった古木が、偉そうに何を言う気だ?」

 

『あと、いつまで、そうしていられるだろうな』

 

「何が言いたいんだ、話し方も忘れたなら黙っていろ」

竜はそう言って、荒い鼻息を一つすると、再び泉の方を向いて座り込んだ。 おそらく今日も誰も来ないだろうが、それでもいつ何時、何が現れるか分からない。 自分は、何としてもこの泉を守らなくてはならないのだから。

そうやって泉の畔でうずくまる竜に、古木は小さな嘲笑じみた笑みを浮かべた。 ただ既に枯れてしまっている為に、乾いたもの寂しい掠れた音だけが微かに響いたに過ぎなかったけれど。

 

竜は満々と清らかな水を湛える泉の畔で、じっと目を閉じていた。 今度は別に寝ているわけではない、むしろ視界に惑わされないよう用心して周囲の気配を探っている。 普段はまるで岩のように動かない巨体が、ふいと揺らいだ。

竜は知っていた。

これから起こる事。

竜は何度も自分の命運を垣間見ていた。 これは、乗り切るべき試練なのだと、解釈していた。

その時が来たのだ、ついに。

低い唸り声を漏らすと、竜は火のような目を見開いた。 そして起き上がると、じっと試練の来る方向を睨み付けて沈黙した。 その目に湛えられたもの、その全身に漲らせているもの、それは怒りだった。

この泉を狙う、この水の力を狙う、忌むべき侵入者。

それは即ち、排除するのみ。

やがて、下草を踏みつける音がはっきりしてくると、暗い影を落とす木々の向こうから現れたのは一人の森霊ファリだった。 小さくて、ちっぽけな、若者というよりも、むしろ小僧に近いくらいの、擦り切れた小さな存在だった。

 

竜は愉快そうに体を揺すった。 それは竜なりの嘲笑の仕方だったのかもしれない。 だが、現れた森霊が顔を上げた瞬間、竜からは笑みが消え去った。

 

その両眼に広がった漆黒の闇。

その闇の中で底光りする、研ぎ澄まされたような狂気。

その目は、見る者全ての光を飲み込んでしまうのではないかと思う程だった。 幾千年と生き続け、その間ずっと知識を蓄え続けた竜でさえ、初めて目の当たりにしたものだった。

 

これが、命ある者のする目なのか。

こんな目をした者が生きている事など、あるのか……まるで、死そのものを纏うような、果てしない暗闇。 この齢で、この若者は、一体何を見てきたというのか。

 

「試練……」

呟く竜の声が幾分か強張った。

「何の事だ?」

森霊が初めて口を開いた。 声音までもが、遠い昔に凍てついてしまった名残のようで、聞いているだけで生命を奪われるような悪寒が走る。

「さっきから、ぶつぶつと、よく喋る竜だ」

「お前は、何が望みでここまで来た。 見る限り、生への執着などまるで無いようなお前が、一体危険を冒してまで何をしに来た?」

 

「血だ。 太古の竜の血には、計り知れない力があると聞いた……お前は、竜だろう?」

 

「すると、お前は力を欲しているのか。 残念だが、その期待に応えるのは無理だ」

「なぜだ?」

森霊の目が、不審を表して歪んだ。

「確かに、竜の血には万病を癒し、強大な力を与え、消えかけた命すら息吹き返す効能がある。 だが、それは生粋の竜の血であればこそ為し得る奇跡。 今は既に、そんな竜たちはこの地を離れている。 探し出すのは難しいだろう。 更に言うなれば、わしは元来の竜ではない。 お前の望む力は得られないだろう」

「どういう意味だ?」

 

「わしは、ある望みと引き換えに今の姿形を手に入れた。 わしの血で出来る事といえば、せいぜい傷んだものを治す程度に過ぎん」

 

静かに話す竜の目の前で、ゼスベルは何の躊躇いもなく左手に持つ剣を抜いた。 鞘はパサリと地面に落ち、底冷えする光を放つ赤い刀身が陽光に晒され、鋭く反射する。 一連の動作に、右手は一切使わなかった。

「充分だ。 お前の血、貰い受ける」

 

「何? 話をちゃんと聞いていたのか? わしの血では……」

「傷んだものを治すのだろう? だったら、それで充分だ」

 

そこで竜はようやく気が付いて、改めて森霊の右腕に眼をやった。 右手を使わないのではない――使えないのだ。 そうやって見ると、森霊の右腕はただ地面に向かって垂れ下がっているだけだ。

それだけじゃない。 注意して見れば、足だって少し重たそうに引きずっているではないか。 ほんの些細なものだが、これは戦う事が定めの者にとって致命的であった。

竜はまた笑った。 今度は声を立てて、空気を震わせて大笑いした。

 

「その体で、曲がりなりにも竜であるわしを討ち取ろうというのか。 何と愚かな!」

 

「曲がりなり? お前は単に、欲望に負けて元の姿を失っただけだろう。 笑っていたいなら、それでもいい。 それがお前の最期になるのだからな」

「生意気な小僧め、今に千切り殺してくれる!」

竜は猛々しく咆哮を上げ、鱗の音を軋ませて手負いの森霊に襲い掛かった。 風を巻き起こし、炎を操り一気に息の根を止めてやるつもりで牙をむいた。

 

だが、次の瞬間には森霊はその場に居なかった。

一瞬で見失った事に驚いている隙に、森霊の剣が空中で唸った。 空気すら切り裂くような音を立てて、直後には竜の長い首を胴体から、すっぱりと切り離していた。

「な、に……?」

地面に落ちた竜頭が、驚きを露わに目を見開いて森霊を見ていた。 分断されても暫く息のあるところは、さすがに大した生命力だ。 そして、その目は森霊の左手に握られた剣を凝視していた。

「何て剣だ……何て不気味な気配を宿しているんだ……」

「本当に、よく喋る竜だ。 確かに、この剣はよく斬れる。 とはいえ、曲がりなりにも竜を一刀両断にするとは、俺自身、少し意外でもあったが」

「恐ろしい奴だ、お前は……最後に聞かせてくれ、名、を」

聞いてどうする。 漆黒の瞳はそう語っていた。

 

「ゼスベル」

 

竜の目が見開かれた。

「やはり、そうか……深き哀しみジス・エスベルとは、お前の事だったか……」

「いい加減、黙れ」

うんざりした様子で、氷のような声音が吐き捨てた。 その直後、竜は……いや、竜と成り果てた古の巨人は、ようやくその生涯を終えた。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.06 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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