裂けた大地の物語

知恵の巨人---エングス・イエスト

04.定められた者---デイボゥスト

ゼスベルは竜の返り血ルドナニマを全身に浴びた。

おぞましい太古の生物であるルドンの血は、思いの外鮮やかな深紅をしていた。 足元に広がっていくその池は、側にある泉の如く、とうとうと流れた。 幾分か泉に流れ込んだが、清流は沈黙したまま、さやさやと運び去るだけだった。

 

竜の血は、静かに音も無く一筋の線となって泉から小川へと流れ出し、その先は一本の枯れた古木の根に達していた。 何気なくゼスベルが視線を移した時、その耳に擦れたざわめきが聞えた気がした。

それは気の所為ではなかった。

ほどなく、古木が語りかけてきたのだ。 語るといっても、それは口から発せられるものとは違っていた。 当然ながら、古木に口は無い。 もともと木は喋るようには出来ていない。 それは空気を伝わって、風のように直接響いてきた。 その言葉は、少なくとも普通の人間モルには理解出来ないものだった。

 

『ジス・エスベルよ、お前はこれで満ち足りたのか?』

 

「とうの昔に枯れた木が、今頃何の用だ?」

『ジス・エスベルよ、聞きなさい。 お前は確かに竜の血を浴びた。 哀れな巨人イエストの成れの果てである……お前の言葉で言うならば、マガイ物である竜の血を浴びた。 竜自身が言っていたように、お前のその使い物にならない身体は癒える事だろう……だが、お前は一つの試練を受けねばならない』

「試練?」

ゼスベルは返り血で汚れた眉を顰めて、冷たい目で古木を凝視した。

 

『そうだ、お前は治癒の為に、お前に対して罪無き竜を殺した。 その行為に対する試練を受ける義務がある。 例え逃げようと、それは生涯付いて回る。 果たされるまで、それはずっと付いて回る』

 

古木の言葉は、よく聞いていないと聞き取れない程、微かに響く程度だった。 そして不思議な事に、ゼスベルにはまるで古木が竜の死を悲しんでいるかのように見えた。 とうの昔に朽ち果てた僅かな幹の残骸が、痛ましいばかりに軋む音が耳を掠めた。

「その試練とやら、お前は知っているのか」

『いいや。 試練は与えられるものではない。 受けなければならない時に、何らかの形でお前の元へとやって来る』

「ほう、やけに詳しいじゃないか」

訝しく思い、眉を寄せて古木を睨む。 古木は何やら意味ありげに乾いた音を立てた。

 

『ああ、詳しいとも。 他ならぬ、わたしも試練を受けている一人なのだから』

 

ゼスベルは別段驚きはしなかった。 ただ表情だけは少しばかり険しくなったけれども。 むしろ、何かを納得したようだった。

 

「つまり、正真正銘の死に損ないってわけか」

 

『否定はしない』

あっさりと認めた古木に対して、ゼスベルは相変わらず不審に思っている事を隠しもしなかった。

「ここに来る前、とある人間モルの村で胡散臭い老人に会った。 そいつの手にしていた古木、あれはお前の一部だろう? 別段才能も能力も無い老人に、まじない師を気取らせて、一体何を考えている?」

 

まさか、あれを試練だとでも言う気か。 完全に訝しんでいる様子の、生命を凍らせるような視線を向けたゼスベルの心中を察したように、古木は静かに否定した。

『確かに、わたしの枝だった。 わたしは連中の先祖に切り倒され、そして焼かれた』

「連中……?」

『あの哀れな竜がやって来るずっと前の事だ。 やはり泉の水の虜になった人間共が、助言を加えた私を切り倒し、記念の一枝を除いて焼き払った。 だが、それをどうとは思わない。 それも、わたしの受けるべき試練の一端に過ぎないのだから』

 

「お前の身の上話など、興味は無い」

うんざりだ、と黙した目が語っている。 すると古木は小さく乾いた音を立てた。 それは苦笑だったのかもしれない。

『そうか、ならばこの話はもうしない。 だが、これだけは聞いていけ。 お前自身とこれからの時代に大きく関わる事だ』

「俺は誰とも関わる気は無い」

 

『関わらなければならない。 否が応でも関わる事になる。 お前はデイボゥストの一人なのだからな』

 

「……デイボゥスト?」

『嘆きの時代に生まれ合わせた者の中で、成すべき定めを受けた者達の総称だ』

「聞いた事が無い」

『そうだろうとも。 先の嘆きの時代は実に五千年以上も前なのだ。 その頃に比べて、森霊もずっと短命になった。 覚えている者も、殆どいない事だろう』

「嘆きの時代は、前にもあったのか?」

冷たいばかりだった表情が、一瞬だけ崩れた。 前触れも無く冷水を浴びせられたように目を見開いていた。 それが、古木にとっては不思議だった。

古木には目も耳も、幹すらも無いが、そんな事は問題ではなかった。 ゼスベルがどれだけ驚き、どんな表情をしているのか、肉眼以上によく見えていた。 それは、長い年月をかけて根が吸い続けた泉の水の効果だった。

「お前は一体」

『それを説明するには、森霊といえど気の遠くなるような時間を要する。 お前は、わたしの話には興味ないのだろう?』

まるで、忍び笑いをするような声音だった。

「ああ、興味は無い。 ここにも、もう用は無い」

そう言ったゼスベルの視線の先には、巨大な深紅の塊となって横たわっている竜の姿があった。 鋼よりも何よりも硬い鱗や牙が、どろりとした己の血に染まり、更に陽光に晒されて怪しく、そして哀愁めいて反射していた。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.06 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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