05.試練---ドゥーラーン
いくらマガイ物とはいえ、傷んだものを癒す
左手に持つ剣は鞘に納まっているのだが、以前にも増して、肉眼では見えない漆黒の闇が渦を巻いていた。
その気配の恐ろしさ故か、最近では
果たして、竜の血というのは、それ程までに恐ろしいものなのだろうか。
そんな事は別段どうでも良かったのだが、ふと自分の右手を見た。 相変わらず何の飾り気もなく垂れ下がっている。 力を込めてみても、小枝ほども動こうとはしなかった。
完全にイカレてしまったのか?
時々はそんな事も考えたが、今一つ実感が湧かなかった。 というのも、何だか動く気がしていたからだ。 それに血の効果が全く無いのでは、折角竜を仕留めた意味が無い。 どうせ取り返しは付かないのだから、動くようになればいい。
それに、竜自身が言っていた。 己の血には傷んだものを癒す程度の力はある、と。 命を懸けてまで、仕様の無い嘘を吐くとは思えない。 だから、血の効果は必ずあるのだろう。 いつ効果が現れるのかは、全くの不明だが。
まあ、それは気長に待てばいい。 ……自分には急ぎの用事など無いのだから。
そして、ゼスベルの徘徊は続いた。
地理的には、グランドウの地の北東方面を進んでいるはずだ。 もっとも、グランドウの地の広大さも然ることながら、その地の外側。 つまり太古の生きる領域は、グランドウの地の何百倍という広さだと噂に聞いた事がある。
思っていたよりも、大地はずっと壮大だという事だ。 改めてそれを実感して、その夜は何処とも知れない森の焼け跡に野営をする事になった。
自分は、何て小さい存在なのだろう。 小さくて、無意味な存在だ。 一体、自分の生きている意味とは、何なのだろう?
こんな暗い時代にも、見上げれば数多の星が光り輝いているのだ。 それこそ、天空一面、見渡す限りの星明りだ。 おそらく太古の時代から変わらない小さな明かりから身を隠すように、ゼスベルは焼け落ちた大木の根元に腰を下ろした。 動かない右腕を庇うように押さえて、静かに目を閉じる。 こんな事を、これから先どれだけ続けていかなければならないのか。
深夜を回った頃だろうか、ゼスベルは唐突に目を覚ました。 自分のすぐ側で、大きな鼓動を聞いた気がしたからだ。 それは気の所為ではなかった。
「どういう事だ、剣が、鼓動している?」
鞘に納まった愛用の剣が、確かに鼓動していた。
手に取ると、脈が直接伝わってくる。
どくん……っ どくん……っ どくん……っ どくん……っ
拍に合わせて剣がほのかな緋色を発している。 鞘越しだというのに、刀身の煌きが透けて見えた。 この、恐ろしいばかりの躍動感は、一体どうしたというのか。
「何だ?」
空を見上げると、大きな放物線を描いて古い赤い星が流れていくところだった。
「星が、落ちた……」
それが何を意味しているのか分からなかったが、星が地平線に消えた瞬間、剣の鼓動もまた止んだ。 鞘を握りしめている手は、その後も暫く硬直したまま痺れていた。 秘め難い漆黒の気配以外は、何の変哲も無い森霊古来の細工の施された剣と鞘は、元の通り沈黙を守り、発光することも無かったが、その鞘を握る剣士自身は、まるで体内を引っ掻き回されたかのような動悸を覚えていた。
体が、何だか妙な感じだ。 奥底の方で何かがざわめいている感じだ。 血が沸々とする。 内臓全体が波打っている感じがする。 体の力があちこちを移動しているように感じられる。
「な、何だ?」
眠気など彼方に飛び去った。 その後暫くして、動悸もざわめきも治まった。 ゼスベル自身は何も変わっていないし、剣もそれ以上は何も起こらなかった。
その夜は、それで終わった。 そして、気が付くと朝が近かった。 日が昇る前にその場を立ち去ったゼスベルだが、彼を襲った動悸はまだこれから訪れる試練の第一次に過ぎなかった。 本来の気質ゆえか、気に病む様子は見せず、宛の無い流浪を繰り返し、いつしか海風の匂う辺りまで近付いていたらしい。
孤独な旅の日々は続き、ついにこの潮風の香る森で、試練の時は訪れたのである。 それは、以前を上回る勢いで、唐突に襲い掛かってきた。 心臓が破裂せんばかりによじれているようだった。 剣を取り落とし、その場に膝を付き、呼吸すらままならない程の圧迫感に見舞われた。
視界が大きく揺らぐ。
頭が張り裂けそうな程痛い。
あるもの全て吐き出したい程、胃の腑の辺りがむかつく。
「……っげほ……っ、げほ……」
耳鳴りのように鼓動が響く。 何がどうなっているのか、わからない状態で、ゼスベルはひた走った。 とにかくこの重圧から逃れたくて駈けずった果てに、砂浜に足を取られてその場に崩れ落ちた時、すでに意識は無かった。 苦しげな息の元、ぐったりと倒れる森霊の青年を、波は初めのうちは静かに浸らせていたが、やがて音も無く引き潮に乗せて運んでいった。