06.密やかに---セクルート
何処か暗いところを静かに落ちていくような感覚だった。
静かに、静かに、音も無く。
川底に沈殿していく砂粒のように。 髪一筋ひとすじからつま先に至るまで、体中の力という力が全て水中の泡のように体から離れていくのが分かった。
消えていく。
薄らいでいく。
それでも抗わず、逆らわず、ただ静かに静かに落ちていく……落ちていく……落ちて……考える事なんて何も無かった。 だから、考える事なんて止めてしまいたかった。 だが、何か、何か聞える気がした。 計りしれないくらい遠くの方で、何か……何だろう。 ざわざわした感じがする。 ……疲れるだけだから、考えなければいいというのに、思いのままにはならないらしい。
何だ、一体?
何だ?
「おい! あ、気が付いた!」
「う……」
ぼんやりと瞼を押し上げた。
一気に飛び込んできた閃光に、視界はぐにゃぐにゃ揺れ、物を見分けるなど殆ど無謀な事のように思えた。 目を開けた瞬間から、体中を鉛のような重たさと気だるさが支配した。 指の先すら動かそうとは思えず、只、酷くだるかった。
空気までもが体を圧迫してくるようで、緩慢な鈍痛がじわじわと湧き上がってくる。 生きた心地もしないのに、何故だ、急に尋常ではない渇きを覚えた。
「目が開いた! 気が付いた! 生きてたんだね! 何て運のいい奴、あんた、俺の声聞える? 分かる?」
側で小うるさい声が土石流のように鼓膜を振動させる。 そちらの方を向こうにも、首も錆付いたように動かない。 仕方なく目玉だけでも動かそうと試みたが、それも無駄だった。 意識も朧で、本当に、やかましく喚いているそこの奴の言うように、生きているのが不思議だ。
お前……一体誰だ? うるさい奴だな……
そう言おうとしたが、声は出てこなかった。 ただ口を小さくか細く開閉させていたに過ぎなかった。 その様子を見て、うるさい奴は弾かれたように立ち上がった。
「ん、何? あ、そうか喉が渇いているんだね! 分かった、待ってて。 今、水を持ってきてやるから!」
……いや、全然分かってないぞ、お前。
ばたばたと出て行く足音までもがやかましい。 脳の奥まで反響し、頭痛と空気に眩暈を覚えながら、ゼスベルはそれでも今までの経緯を思い返そうとしていた。 一体何があったのか、記憶の糸を辿るだけでも、今の体にはかなりの負担になっているらしい。 すぐにまた、強烈な頭痛が始まって中断してしまった。
「ほら、水だ、飲めるか?」
ばたばたと軽い土ぼこりを立てて戻ってきた軽やかな足音が、すぐ側で止まる。 ひとまず水の入った容器を傍らに置き、身動きのままならないゼスベルを何とか少しだけ起こすと、口の端の方に容器を寄せて傾ける。
こんな調子じゃ満足に飲み込む事も出来ないだろうと諦めていたのに、ゼスベル本人も驚くくらい確実に喉を潤していた。 あっという間に飲み干してしまい一息つくと、うるさい奴は気を遣うように尋ねてくる。
「もっとも飲むか?」
辛うじて頷いたゼスベルを見て、うるさい奴は素早く出て行った。
「もういいのか?」
先程よりは格段にはっきりと頷くようになったゼスベルが縦に首を振ったのを見て、やかましい奴は水を運んでいた容器を片隅においやった。 まだ起き上がるまでには至らなかったが、少なくとも視界は確保出来るようになった。 眼球の動きも格段によくなり、辺りを窺っている風であった。
「安心しなよ、誰も居ないから。 ここに人が来る事も滅多に無い。 ゆっくり休めるよ」
目の端で捕らえたのは、部屋の片隅でこじんまりと座り込んでいる少年の姿だった。 随分と小汚い小僧だった。 着ている物はぼろぼろの薄汚れた労働着で、頭の先から足の先まで泥と垢で黒ずんでいる。 髪もザンバラでぼさぼさだ。 相当傷んでいる感じがする。
明らかにその日暮らしもままならない状態だと推測できるにも拘らず、目は……そうだ、目は活気に満ちてきらきらと輝いている。 一体何が、そんなに楽しいのだろうか、こんな時代に。
この少年の目は、今のゼスベルにとって一番見たくない類のものだった。 常に新しい事、冒険……そんなものを追い求めている好奇心そのままのような目。 隙さえあれば何時でも飛び出していきそうな、そんな空気を張り巡らせている。
おそらくゼスベルの容態を気遣っているつもりなのだろう。 今は大人しく片隅に控えて合図が無い限り黙っているが、自分とは明らかに風貌の違う珍客。 或いはひょんな拾い物が何なのか、知りたくてうずうずしている。
丸分かりだ。
この少年は
時々ゼスベルはそんな事も思ったが、とにかく少年の介抱は有難かった。 一時的に助かっただけだと思っていたが、本人が思っている以上に体の方はしぶとかったようだ。 一月もすれば、ゼスベルは全く以前のままの体力を回復した。
森霊として生きる事に、今更何の執着も無い。
この体でいる方が、これからはずっと都合が良いというものだ――