09.果てし無い大地へ---エト・レシエン・ダール
――お前も来るか
その静かな一言が、かつて見た事も無い広い世界へ自分をいざなおうとしているのがよく分かった。 とっさに頷きかけた時、少年ははっとして思い止まった。 振り返った先には、この島の絶対唯一の主が、すっかり気を失って倒れていた。
ぴくりとも動かない。
死んでしまったのだろうかと思うと、なぜだか冷やりとし、散々自分を殴っていた男の下へ、少年はそっと近寄っていった。 全身はずきずきと痛んだが、この程度なら、動き回るに影響は無かった。
さすがに、触れるのは躊躇われたが、傍でじっと見ていると領主はちゃんと呼吸をしていた。 虫のようなか細さではあったが、ちゃんと生きていた。 領主の恐ろしい存在からは、まるでかけ離れた初めて見る姿に、少年の心は複雑に軋む。 それでも何処か、ほっとしている部分を確かに感じていた。
少年は、戸口に立つマルセイに向かって静かに口を開いた。
「今はまだ行けないや、
そう言うと、マルセイはその不思議な色を湛えた瞳を怪訝に曇らせる。 まるで理解できないと言わんばかりに。
「さっきの行動を見る限り、同じ事の繰り返しだぞ」
それでも、手当てをしてやる義理があるのか? マルセイの目はそう言っていた。 一瞬だけ、少年の澄んだ瞳が揺れた。 そして、ゆっくりとマルセイに顔を向けた時には、既に迷いを吹っ切った様子で、一度だけ頷いた。
「どんな人であれ、両親のいないおれを育ててくれたのはロンドなんだ。 ひどい目にも遭うけど、やっぱり見捨てられないや」
「でかい館があるのに、こんな偏狭のボロ小屋に住んでいて、養われていると言うのか?」
それを言われて、少年は少々気まずそうに両肩を竦めた。
「まあ、それを言われちゃうと何とも言えないけど」
理屈では無い、と言いたげだった。 なぜ、こんな境遇にいながら真っ直ぐな目をしていられるのだろう? ひどい目に遭わされると言いながら、どうしてこんなに従順なのだろう?
マルセイ ―― ゼスベルには到底、理解できなかった。
「あの、マルセイさん、こんな事頼むの悪いとは思うんだけど、おれ一人じゃどうしようもないんだ。 ……お願い、ロンドを一緒に運んでくれないか? 頼む」
本当にすまなそうに見上げてくる、その何もかもが無性に腹立たしかった。 腹立たしいのだが……
「……表にそいつの馬がいるだろう、乗せればいいのか」
「あ、うん、ありがとう!」
日々鍛えているのか、初老の割には良い体格をしている。
きっと
少年は馬を引いていくつもりだったらしいが、肝心の馬の方が言う事をきかないものだから、結局ゼスベルまでもが領主の館まで趣く事に相成った。
「本当にごめん、マルセイさん」
すっかり恐縮したような少年の声にも、ゼスベルは目すら合わせずに終始無言だった。
領主の館は、ちょっとした要塞並みに立派なものだった。 だが、立派なのはその見てくれだけで、館内も外も、およそ人らしい人は見当たらない。 一体、何から何を守るつもりなのか、矛盾だらけの箱物をゼスベルの冷たい視線が一瞥する。
少年に言わせると、館には領主一人が暮らしているらしい。 その昔には大変賑わっていたらしいが、今ではその名残を感じさせるものすら、ほとんど無い状態だ。
「この島は、本当は大陸の一部だったんだ。 大きな街だったらしいんだけど、ロンドの親父の代に津波と地揺れで切り裂かれたんだって。 沢山死んだって聞いた。 おれの爺ちゃんと祖母ちゃんもその時、いなくなった……海の底に落ちたんだ」
領主を寝台に横たえさせると、少年はてきぱきと手当てを始めた。 そしてついでのように身の上を語り出した。 今のゼスベルにとって他人の過去などどうでも良かったのだが、何故か少しばかり気になった。 同意を求められたとしても答える気は毛頭無かったが、それでも森霊の耳は少年の話を聞いていた。
「ロンドはこの島の主だけど、独りぼっちなんだ」
「これだけの規模だ、多少島民はいるだろう」
「いるよ。 だけど皆ロンドの事を倦厭している。 さっき見ただろ、時々あんな風に殴るからすっかり嫌われてる。 だから、独りぼっちなんだ」
「自業自得だろ」
ゼスベルは呆れたように切り捨てたが、少年は言葉を詰まらせた。
「そうだけど……おれも独りぼっちだ。 ロンドはこれでも結構、気を遣ってくれるんだよ。 まあ、おれはその分もっと気を遣わなきゃならないんだけどね」
苦笑いを見せながらも、少年の口ぶりは全くと言ってよい程、嫌悪感を示さない。
「けど、島の外の世界へは、出てみたいんだ。 何処までも広がる大地ってやつを見てみたい。 きっと色んな人がいるんだろうな、考えただけでワクワクするよ。 マルセイさんだって、そうでしょ? 全然話してくれないけど、おれとは違うでしょ? 大地にはマルセイさんみたいな人が沢山いるのかな」
少年の両眼は希望をはち切れんばかりに詰め込んでキラキラとしていた。 一点の曇りも無い清流のように湧き出ては流れるような活気に満ちている。
その目をゼスベルは正面から見据える事が出来なかった。 とうの昔に褪せて消えた筈の記憶に、ちりちりと触れようとするからだ。 一刻も早く立ち去ろうと、くるりと身を返し、戸口へと大股で向かった。 その背中に更に少年の明るい声が追いついた。
「ありがとう、マルセイさん。 嬉しかった。 でも今はおれ、この島を出られないんだ。 だから、時期を見つけて追いつくよ。 ちゃんとマルセイさんを見つけられるように、祈っててよ」
おそらく振り返れば少年は、めいっぱい手を振っていた事だろう。 だが、ゼスベルはそんな素振りは微塵もみせず、返事すらせず出て行ったのだった。
「……やっぱり名前、教えてくれなかったか」
残念そうな少年の呟きは、人間の何倍もの感度を持つ森霊の耳にはしっかりと聞えていた。 だが、あえて何も聞かなかったように振舞って、ゼスベルは七日の内にこの大地から切り離された島を後にするのだった。