裂けた大地の物語

知恵の巨人---エングス・イエスト

10.船出---ヴァーリング

「本当に行っちゃうんだ……」

修理した痕も真新しい一隻の小船を。今にも海に押し出そうとしている背中に向かって、少年は複雑な声音で呟いた。 片眉を小器用に顰めて振り返る青年の瞳は、やはり怪訝そうに何とも言えない色を湛えていた。

「こういう時ってさ、何だかんだっても残ってくれるもんなんじゃないの? 嫌だ嫌だって言いながら手伝ってくれてさ、そんでもって領主ロンドにも感謝されちゃって、そっから晴れて俺も一緒に連れてってくれたりするもんじゃないの?」

「どこの世界の話をしている」

「昔、母ちゃんがよく話してくれたお助け人の話じゃ、相場はたいていそんなトコだったよ」

両手を頭の後ろで組みながら、少年は無邪気に言う。 半分はがっかりしているだろうが、もう半分はこの型破りな青年に感心するやら呆れるやら、そんな気持ちがごちゃ混ぜになっている。

「それは残念だったな、俺はお助け人じゃない」

「あーあ。 はっきり言っちゃったよ、この人」

少年は頭を掻きながら苦笑いだ。 別れを惜しむように少しだけ口元に力を入れている少年に対し、見送られる側は何とも冷淡で無愛想だ。 自分の後ろで何だかんだと言い続ける少年の言葉すら完全に遮断し、今まさに大海に繰り出そうとしている。

 

「おれさ、ちゃんとマルセイさんに追いつくつもりだよ。 何年かかるかは正直分からないけどね、だから教えてよ」

「何を」

「何をって……名前だよ、マルセイさんの本当の名前! 教えてくれなきゃ探しようが無いだろう!」

「何故だ、その名前で探せばいいだろう」

「……へ?」

少年はぽかんと間を抜かした。

「探せって、マルセイは本当の名前じゃないだろう? おれが勝手にそう呼んでるだけなんだから」

だが、そこまで口に出して気が付いた。 この人は本当の名前を捨てる気なんだろうか。 そうまでしなければならないとしたら、この人には一体何があったというのか。

 

「分かった、じゃ、それで探す。 おれが付けた名前忘れないでよ」

「さあ、そこまで責任持つ気はない」

「んなっ……」

文句を言おうとした少年の頭を押さえつけるように、青年は片手を突き出した。 別に殴ろうというのでもない、撫でてやるわけでもない。 だが、それが彼なりの別れの告げ方だと察しがついた。 その大きくて肉刺だらけの掌から伝わる熱を、少年はきっと忘れないだろう。 それは確かに、人の持つ温もりだった。

 

「本当に旅に出るつもりなら、帰る場所を守れ――必ず」

 

そして、二度と振り返る事無く、マルセイは船を出した。

大地までは程遠いが、森霊ファリの視界にはしっかり捉えられる範囲の話だった。 丸三日もあれば着くと思っていたが、海原はだんだんと不穏な波風を立てるようになった。 そして二日目の夕刻、恐ろしく急激な大時化となったのだった。

元は同じ大陸で繋がっていたあの島と大陸の間を隔てる海の底が、思っている以上に複雑な地形をしているのだろう。 だから、ここまで海が荒れるのだ。 マルセイはそう思っていた。 大地はそう遠くないはずだ。

――ジス・エスベル

ふとマルセイの耳にそんな声が聞えた気がした。 勿論、こんな荒れた海に他に誰かがいるとは思えない。 風の唸りがたまたま言葉のように聞えたのだと考えたが、そのそばからまた声が聞えた。 今度はさっきよりも確実に、はっきりと、言葉として。

――ジス・エスベル

「誰だ?」

眉を顰めつつも答えると、声は一層はっきりとまるですぐ傍にでもいるかのように聞えてきた。

――ジス・エスベル。 捨てる気か、定められた者デイボゥストとしての名前を、本当に捨てる気なのか。

「捨てようが捨てまいが、たかが名前だろう」

 

――それは違う。 お前は名前を捨てる事は出来ない。 捨ててはならない。

 

「何処の誰だか知らんが、随分と口のうるさい奴だな」

 

――もう忘れたのか、いや忘れた振りをするのはよせ。 逃げるな、逃げずに立ち向かえ。 デイボゥストの一人として立ち向かわなければならないのだ。

 

「……本当に、うるさい奴だな」

青年の声音が冷たく凍るような響きに変わった。 その双眼には、漆黒が渦を巻いている。 静かに音も無く、だが全てを呑み込んでしまうような冷たく暗い影が差している。 その影に己自身を飲み込もうとしていた矢先、突然目の前の海が水柱を上げて隆起した。 その水柱が形作ったのは見間違うはずも無い、自分が首を切り落としたルドンの姿だった。

「死んだはずではなかったのか……」

唖然とする青年に水柱の竜は静かに答える。

 

――ああ、死んだとも、お前が手にかけたのだろう、忘れたわけではあるまい。

 

「驚いたな、死にきれずに俺も道連れにしにきたか」

その言葉に、竜は静かに笑った。 声は無かったが、嵐の風や波音が全て竜の笑い声に聞えた。

――案ずるな、そんなつもりは無い。 たしかにわしは死んだ。 だが、これからのお前の返答次第では道連れにするかもしれぬ、それこそ死にきれずにな。

 

「どういう事だ?」

 

――お前がわしを殺し血を得たのは逃げる為ではあるまい。 それではせっかくの竜の血ルドナニマも何の役にも立ちはせぬ。 デイボゥストとして立ち上がってこそ、お前の体に染み付いたわしの血は力を発揮するのだ。 つまらぬ事に使うな。 マガイものとはいえ、わしは森霊よりもずっと長く生き、ずっと長く知恵を蓄えた……軽んじる事は許さん。

「どうしろと?」

――まずは剣を探せ、わしの首を一撃の下に切り落としたあの剣を。 その先は、剣がお前をいざなう。

「剣が?」

――探せ。

「あいにく、俺は誰のいう事も聞く気は無い。 関わるつもりも無い」

 

その答えに、竜は一度だけ首を垂れた。 そうか、と呟いて、それからおもむろに首をもたげると嵐さえ切り裂くそうな鋭い咆哮を上げた。 直後、船が大きく傾いだ。 まるで濁流を舞う木の葉さながらに、儚く呑まれて波間に消えた。

作中に登場するカタカナの読みは、一部造語です。 予め、ご了承ください。

2004.08 掲載(2010.08 一部加筆修正)

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