8.王権交代 --- ゾール・キェソ
王権交代。
それはここ最近の日没の森では一番大きな変革だった。 時の権力者であったグロラス王は、その王座を一番信頼している息子に譲って表舞台から退いた。 一番信頼している息子――グラニアスが三十三回目のグランデュロア優勝を果たした年の事だった。
今や、日没の森の英雄がグラニアスである事に異論を唱える者などいなかった。
きっと父親を超える
森中の
「そうじゃない……」
自室で一人になった時、グラニアスは皮膚を引き裂かんばかりに、その大きな拳を限界まで握りしめていた。 力むあまり、わなわなと打ち震える拳は今にも怒りを爆発させそうになるのを、やっと堪えているという有様だった。
なぜ、グラニアスが三十三回もの連続優勝を果たせたのか……
それは最大の敵が、この三十三年の間、ことごとくグランデュロアを放棄してきたからだ。 まるで頃合を見計らったかのように、開催の時期に合わせて森を抜け出していたからだ。
「……ゼスベルっ!」
溜め続けたものが怒涛の如く溢れ出したようなその一言に、グラニアスの全怒りが凝縮されていた。 飄々と森の外れで一人暮らす、王族の末端中の末端……王権からは最も遠い存在で、本人も権力を全く望まないというのに、この森で誰よりも王座に近い所にいる、見るだけで虫唾の走る輩。
グランデュロアでは無敵を誇るグラニアスが、ただの一度も勝利をもぎ取った事の無い唯一の存在。 それどころか、虫を捻り潰さんばかりの容易さで殺されかけるという憂き目に合わされたのだ。
位の上では一介の卿でしかない奴に、時期王になろうかというグラニアスが味わわされた苦い敗北……三十三年そこらでは、到底忘れ去れない屈辱だ。
「お前に勝たなければ、俺は王になったとは言えない……王家を存続させる事には、ならないんだ!」
このまま王に立ったのでは、王族を守る事にはならない……
いつ卿如きに覆されるか分からない王家など、笑い種でしかない……
「……っくそ!」
悔しそうにグラニアスは歯軋りをした。 周りで色々という者は何も知らなくても、譲位した先王グロラスにはおそらく知られている。 未だグラニアスが、ゼスベルを倒せないでいる事を…未だ仕留められずにいる事を。 未だ、グラニアスの事を新王だとは認めていないのだ。
ゼスベルがいる限り、王家には平安な明日など無いのだ。
あいつがいる限り……
この三十三年間、何度と無くゼスベルには正式に勝負を挑んだ。 正確には勝負するよう促し続けた。 だが、あいつはことごとく放棄してきたのだ、頃を見計らったように森から姿を消し続けてきたのだ。
憤りを何とか押さえ、大きく頭を振った時、知らせが入った。
「……ゼスベルが、戻った?」
その頃、ゼスベルは久々の我が家に戻り一息つこうとしていた。 この三十三年の間、ゼスベルが旅に出た回数は、千を超えていた。 このところ、割合長期の旅に出る事もしばしばで、実はグラニアスが時期王に立つ事も旅先で知った程だった。
別に驚く事ではなかった。 何年も前から、時期王はおそらくグラニアスだろうと予想していたから、その噂を聞いた時も、やっぱりな、と思ったくらいだった。
「やーぁっと帰ってきたわね!」
一息ついて旅の疲れを癒そうか、という正にその時、なだれ込んでくる大きな声と元気な足音が勢いよく扉を開け放した。 思わず長椅子からずり落ちそうになったゼスベルは、疲れを癒すとかいう場合じゃなくなった事に多少げんなりした。
「……グロリア」
「何で帰ってきた事を連絡しないのよ、最近本当に森にいないんだから!」
「何で帰ってくるなり、なだれ込んでくるかな君は。どこから連絡を受けたんだ?」
「はぐらかさないで、もう季節も変わっちゃったのよ、今まで何処にいたの?」
「今回は東を目指して旅をしていたんだよ」
「もう何回目よ、少しはここに落ち着いていられないの、貴方は? 本来、
「どうやら、僕は本来とは遠くかけ離れてるみたいでね、同じ所にじっとしているのは、どうも苦手なんだ」
「そんなとぼけた事言ってないで、お願いだから森にいてちょうだい、貴方は長い事いなかったから知らないかもしれないけど、今度グラニアスが新王に立つの。 その後はすぐに森霊たちの集会があるわ、貴方も王族として、卿として出席する義務があるの、まさか忘れてなんかいないわよね?」
「出席? まさか! グラニアスが王に立つのは知っているよ。だけど、僕がなぜ?」
今までだって、よほどの事が無い限り、一介の卿であるゼスベルが出席した事など無かった。 何も卿はゼスベル一人じゃない。 まだ若者の具類に入るゼスベルがわざわざ出る幕など無かった。 土壇場の人数の埋め合わせで出席した事が数回あるくらいなのだ。
「馬鹿言わないで、何度も優勝して、日没の森の英雄は今やグラニアスの代名詞も同然よ、グラニアスが唯一ライバル視している貴方が集会に出なくてどうするの!」
ゼスベルは唖然とした。
グロリアの言っている事が、とっさに理解できなかった。
「だから、グラニアスが王に立ったら、何で僕が集会に出席する事になるんだよ?」
それこそ、グラニアスにとって目障りな事ではないのか。 正直、ゼスベルだってこれ以上関わりたくない、王族とは。
「貴方はグラニアスを祝福する気持ちが無いの !? 」
「は……ぁ?」
「これ以上グラニアスと争いたくないのなら、きっぱり集会に出て意思表示するべきでしょう? だから卿として出席しなさいって言ってるんじゃない!」
とにかく集会に出席しろと言い残してグロリアが去った後も、しばらくゼスベルは唖然としたまま開きっぱなしの扉を眺めていた。 グロリアの言いたい事は、何となく分かったが、やはり誤解が生じているようだ。
何もゼスベルは好き好んでグラニアスと敵対しているわけじゃない。 向こうから敵視して、自分を排除しようと得物を振り回してくるのだ。 怪我をしたくないから避ける程度の事はしてきたが、別に争ってきたわけじゃない。
ただ、関わりたくないだけだ。 王族とか権力とか、統治だとか外交だとか、そういったもの全てと関わり合いを持ちたくないだけだ。 向こうが放っておいてくれさえすれば、ゼスベルは自由気ままに自分のしたい事をして森の端っこで暮らすだけだ。 ただ、それだけだ。 それだけなのに……
「何で、こういう事になるんだ……?」
ゼスベルの戸惑いの呟きは、そのまま扉の外へ漂い出て風に飛ばされて、消し飛んでしまった。
「グラニアス、入りますわ」
部屋に一歩踏み込み、グロリアは丁寧にお辞儀をした。 グラニアスが少しだけ眉をしかめたが、そんな事は気にしていない様子でグロリアは顔を上げる。
「何だ、どうしたグロリア」
「ゼスベルが、今度の集会に出席致しますわ、卿として」
「……まさか、あいつがそんな公式の場に出るような奴か」
「出ますわ」
きっぱりと言い切るグロリアのどこからそんな確信が沸いてくるのか、逆に疑問に思ったほどだった。 だが、グロリアが嘘をついたり悪い冗談を言ったりするような性格では無い事は、グラニアスも良く知っている。
「なぜだ?」
「長年の因縁に終止符を打つ為ですわ」
真っ直ぐに時期王となる兄の目を見据えて、グロリアははっきりと断言した。