10.嵐の前 --- ブレクルス(ブリ・アクルス)
「ゼスベル卿、貴方もこちらに来て話に加わっては如何かな?」
談笑する一群の中から、突如としてそんなお声掛りがあってゼスベルは驚いて断ろうとした。 自分は仲間入りするつもりで来たのではない。
「い、いえ、私は……」
「……そう言わずに、お前も参加しなさい、折角のお誘いなのだ」
ゼスベルの言葉をさえぎって、そう促したのは他の誰でもないグラニアスだった。 その事に益々面食らって、ゼスベルは唖然として、この若き王を見やった。
「し、しかし、
「ロス・グラニアスもああ言っているのだから、さあ。 確か、貴方は日没の森でも類稀な冒険好きと聞いている。 是非、その武勇を聞かせてくれぬかな?」
有無を言わず背中を押されて、ゼスベルは場違いな群れの中に引き込まれてしまった。 傍目にはとても和やかな雰囲気のこの集団だ。 グラニアスも、一見すると何事もないように装って実に穏やかに談笑している。 だが……
違う、違う。 こんな事をしに来たんじゃない!
『これじゃ、ロス・グラニアスをダシに手前ぇを売り込みに来たようなもんだ』
つい先刻のガラの言葉が、ゼスベルの脳裏に浮かび上がる。 ただの付人が、どうして自分の主君と同席して良いものか。 この集会はあくまでもグラニアスが参加するものであって自分じゃない。
他の集団から漏れ聞こえてくるゼスベルの話題や、本人に差し向けられる視線を全身で感じ取って、ゼスベルは益々いたたまれなくなっていた。
「ん? 如何なされたゼスベル卿?」
話の輪に加わったものの、ほとんど口を開かないゼスベルに一同が小首を傾げる。 その中で一際鋭い視線が突き刺さる。 それが自分の主君グラニアスのものであると直感して、ゼスベルは静かに顔を上げると手渡されていた杯を手放した。 繊細な装飾を施した眩しいくらいに磨かれた杯は、机に置かれた時小さく澄んだ音を立てた。
「お口に合いませんでしたかな?」
「いいえ、そうではありません、どうぞお気遣いなさらずに。 ロス・グラニアス」
「どうした、何処へ行く?」
「警備を兼ねて、私は外に控えさせて頂きます、御前を失礼致します」
礼儀正しく一同に深々と一礼すると、ゼスベルはそのまま集会場を後にした。 ゼスベルにとって、この場は一分一秒と居たくない場所だった。 グラニアスにとっては、去っていくゼスベルの背中は、まるで逃げ出す兎のそれのように映っていた。
「ゼスベル卿は、何か気分でも害されてしまったかな?」
ただの付人が去っただけなのだが、場の空気は一気に冷めてしまっていた。 後に残るのは妙に気まずい沈黙だった。
「お気遣いなさらずに、少し酔ったのでしょう」
グラニアスは穏やである事を努めて、そう弁護すると冷めてしまった場の空気を何とか持ち直そうと、にこやかに杯を傾けた。
華やいだ場を離れて一人、屋外に出るとゼスベルは大きく深呼吸をした。 そして、改めて考えていた。 もともと警備は充実している、それがあの場を離れる為のわざとらしい口実に過ぎなかったわけだが、今更ながら後悔していた。 もっと上手い言い方が、方法があった筈なのに、何でわざわざ警備なんて言ってしまったのか。
まるで、自分の力を誇示しているみたいじゃないか、ばかばかしい。
吐き捨てるような溜息をつくと、ゼスベルは大きくうな垂れた。 本当に、一体自分はここへ何をしに来たのだ、何を。 こんな誤解を招く為に来たのではない、それだけは確かだ。 確かなのに……実際には、全くゼスベルの思惑とは食い違ってしまっているではないか。 どうして、こんな事になるのだろう。
「……王族と関わると、やっぱりロクな事がない」
ぽつりと独りごちているゼスベルの脳裏には、当然あのお節介焼きの従妹の姿もあった。 この集会に参加したのは、元を辿れば彼女の押しの強い提案があってこそだったが、やはり王族体質のお姫様の意見は、はみ出し者のゼスベルにとってあまり意味の無いものだったようだ。
「どういうつもりだ、お前は俺に恥をかかせに来たのか?」
外に出て、どれくらいになるのか、はっと気が付くと辺りはすっかり夜の闇の中だった。
「……グラニアス」
顔を上げると、そこに立っていたのは自分の森の新しい主君だった。 相変わらず、上からモノを見下げている態度だが、その両眼の冷たさだけはゼスベルも初めて見るものだった。
「……悪かったよ、本当に。 あんな態度、取るつもり無かったんだ……と言っても、あんたには通用しないんだろうな」
何も言わなくても、この目を見れば誰だってそう思うだろう。
「悪いと思うなら、なぜ出る気も無い集会に参席した。 ああいう、あからさまな態度を取られては、こちらも不愉快だ。 お前は人の殺気は読めても、場の雰囲気は分からないのか」
「……」
何も言えない。
気まずい沈黙が重々しく広がっていく。
「場の雰囲気を壊す気も、あんたのお披露目を邪魔する気も無かった。 正直、参席する気もな。 ただ、けじめを付けるつもりだった」
「けじめ?」
「ああ。 金輪際、こういう集いには出ない、という事を証明しておきたかっただけだ」
ゼスベルは視線を地面に向けたまま、静かにそう告げたが、グラニアスは一切何も言わないで立っていた。
「俺には、権力や外交なんてものは必要ない。 欲してもいない。 数多大勢の上に立って何かを仕切るなんて向かない。 勿論、あんたの邪魔をするつもりも毛頭ない。 それをはっきりさせておきたかったんだ」
「それで、王族ではなく、一介の卿として俺の付人を買って出たわけか。 だが、それならば何故、卿を名乗る必要がある? その身分もまた権力の内だ、お前の言い分では周りを納得させるに至らない」
「それは……」
「グロリアがそう言いくるめたのだろう、聞いている。 だが、お前は自身の態度の結果を妹の所為にするのか? だとすれば、お前はただの腐れた野郎でしかない」
その一言はゼスベルの内に重く突き刺さった。
一瞬のうちに怒りが込み上げ、顔を上げると鋭くグラニアスを睨みつけた。 その凄まじい殺気が主君に襲いかかろうとした、その矢先、ゼスベルは突如察知した気配に身が竦んだ。
(オンズ!)
何十年も前の事なのに、当時の経験は心身共に深く刻まれていたようだ。 唖然とするグラニアスに構わず、ゼスベルは腰に提げる愛用の剣を引き抜いて身構えた。 忘れる筈も間違える筈も無い、あの気配だ。
「グラニアス、気を付けろ! オンズだ、オンズの気配がする!」
「ゼスベル、待て、どうした。 オンズとは何の事だ」
グラニアスの疑問にも答えず、ゼスベルは全身全霊をもって
そして、まるで根負けしたかのようにグラニアスの背後で何かが蠢く気配がした。 突如として自分の背後に現れた奇怪な塊に、グラニアスは絶句し、ゼスベルはとっさに剣を構えた。 だが、やはり剣は効かなかった。
「グラニアス!」
避けきれず、かといって串刺しは免れたグラニアスの右腕は負傷していた。 剣が効かないのは証明済みであったが、それでもゼスベルは己の剣を打ち下ろしていた。
ざくっ……
「……なっ」
ゼスベルの渾身の一撃で、悪鬼は悲鳴を上げて身を捩りながら溶けるように消えた。 驚いたのはゼスベルの方だった。
さっきは駄目だったのに、今度は剣が通じた。 なぜ……
騒ぎと異変を感じ取った