11.悪鬼の影 --- スカイエ
「何事だ、何があった!」
ばたばたと慌しく集まってきた
「ロス・グラニアス! お怪我を……何があったのですか!」
「あ、これは」
「刺し傷ではありませんか! 一体誰が……」
その時、ふと剣を抜き身のまま手にして呆然と佇んでいるゼスベルに、一斉に衆目が集まった。 悪い事に、その刀身には跳ねたグラニアスの血が、ぽつぽつと付着していた。
「ケス・ゼスベル、まさか貴方が……」
「え、ち、違います、これは!」
もっと悪い事には、先程ぶった切った
オンズの存在を、或いは知っている者もいるかもしれない……
だが、今の状況でゼスベルが何を言っても、おそらく虚言にしか取られないだろう。
グラニアスの方を盗み見ると、やはり呆然とゼスベルを眺め返していた。 グラニアスはオンズの事を知らない。 知らないが、今し方はっきりと、あの奇怪で不気味な塊を見たのだ、ゼスベルが剣先を向けた相手が自分でない事は理解していても、先程からの状況を理解しているとは、とても思えない。
そして、まるでゼスベルから遠ざけるようにグラニアスを庇いながら、森霊たちは早急に手当てをするべく奥へと引き下がっていく。 あとに、その場に一人残されたゼスベルは、そろりと自分の手に握られている愛用の剣を目の前にかざした。 何度見ても、オンズを斬った痕跡は見出せない。 ただ、ぽつぽつとグラニアスの血痕が残っているだけだ。
「ゼスベル」
「ガラ!」
まるで小波のようにその場の誰もが引いてしまった後に、やはり一人取り残されたように佇んでいたのは、あからさまに驚きの眼を向ける友人だった。
「お前、まさか……本当に?」
「違う! 違うんだ、聞いてくれ、ガラ……」
オンズだ、オンズが現れたんだ!
ガラは、ゼスベルの言わんとする事を察して、慌てて掌を友人の口に向けて突き出した。 そのまま友人の頭ごと引き寄せると、ただ、黙れとだけ告げた。
「とにかく、ここじゃマズイ。 場所を変えるぞ」
騒ぎのドサクサで、ガラとゼスベルが集会を抜け出すのは容易な事だった。 既に日も落ちていた事も、また二人がズバ抜けた身体能力の持ち主であった事も、或いは大いに役に立った所為かもしれない。 集会場から半デュロン程離れた所で、ガラは注意深く周囲の気配を探り、それからようやくゼスベルを放した。
「ガラ?」
「お前、さっき
「ああ」
「そうか……」
小さく呟いたガラの表情は、薄暗がりの中でもはっきりと「聞き違いであってほしかった」と言わんばかりだった。 苦虫でも噛み潰したように眉をしかめて、暫く気まずい沈黙が続く。 そんなガラの表情を横から眺めていて、ゼスベルはふと思った。
「ガラ、お前は知っていたのか、その……オンズの事を?」
少しだけ顔を上げてゼスベルの方を見ると、ガラは僅かに首を上下に振った。 とても夜の闇の所為だけとは思えない程、その顔色からは血の気が引いている。 その後、続いた言葉は、その場で落下して砕け散りそうな程、小さく掠れていた。
「ああ。 もっとも、その言葉を知ったのは後になってからだったが、俺が始めてアレを見たのは五十年前だ。 ……前に話したよな、例の事件のあと数ヶ月経った頃だった」
例の事件。
ガラの故郷、夜光の森 ―― ゼ・フォリス・ルミネで起こった忌まわしい悲劇。
その事件以後、ガラの国は不審と不安の渦の中で揺らぎ始めている。
「例のガキが、モルもろとも焼いちまった家のある村のごく近くだった。 忌むべき土地だから近付くな、とは言われてた。 けどな、どうしても納得いかなくて俺は見つからないように様子を見に行ったんだ。 ……悲惨だったよ、辺り一面焼け野原だった。 既にモル共の姿は無かった、この里はもう捨てられたんだ、と直感した」
気味が悪いくらい静かで、重い空気だった。 それこそ、呼吸するのもやっとな程、この土地は風にも見放されたのかと思った。 その土地に一歩踏み込んで、何と形容してよいのか分からない悪寒と恐怖が足元から突き上がってきた、とガラは告げた。 とっさに飛びのいて振り返ると、何処から沸いたのかまるで見当もつかなかったが、そこには赤黒い無数の塊が現れていた。
剣も通じない。
森霊の魔力も通じない。
名前も分からないそれらは、ただ生き物の気配のする方へ群がってくるだけ。 耳をつんざくような、頭の芯から引き裂くような、そんな咆哮を上げ、鋭い爪を唸らせて群がってきた。
「斬っても斬っても、まるで宙を空振りしているみたいに手応えが無え。 左肩から太腿までバッサリやられて、俺もう死ぬなって正直思った。 けど俺、案外、往生際悪いみたいでな、どうせ死ぬなら一匹くらい道連れにしてやるって思って俺の肩やったやつを刺したんだよ」
そしたらな、そいつ、断末魔ってやつ上げながら、あっさり蒸発しやがった。
その一言で、ゼスベルは「えっ」と声を上げた。
「それまで全く効かなかったってのに、俺の返り血浴びた奴らは全部ぶった切れたんだ」
「……何で」
「そんなの知るか。 ただ、そのおかげで俺は命拾いした、それは確かだ。 勿論、お前の場合もそうだ、ロス・グラニアスの返り血を浴びた所為で刃が通じた」
「オンズの実体化って、この事なのか……?」
「何だ、それ」
「知らないのか?」
「何の事だ? 俺は、たまたま会った
「スカイエ?」
「ああ、マゼウス達の言葉でそう言うらしい。 血を浴びる事で接触可能になる思念の事なんだと、言うなればオンズの一歩前進型……だとよ」
ゼスベルに言葉は無かった。
「で、お前の言うオンズの実体化ってのは、一体何なんだ?」
「前に一度、オンズに襲われた事があって、その時助けてくれたマゼウスがそう言い残したんだ。 オンズが実体化する時、嘆きの時代が始まる、と」
「嘆きの時代?」
「ああ。 俺にも何の事なのか分からない……だが、オンズの出没領域は確実に広がってる」
ゼスベルの表情は厳しい。
「この分だと、日没の森付近に出るのも時間の問題かもな、グラニアスに……」
「やめた方がいいぜ」
「ガラ?」
「知らねぇ奴には信じてもらえねぇ。 知ってる奴には……口を封じられるぜ」
「どういう事だ?」
「どうやら長老連中には、嘆きの時代ってヤツを案外知ってる奴がいるらしい。 けどな、その名前を出した途端に連行されて、それきり、だ」
「な……」
「禁句、なんだよ」
その鬼気迫るばかりの眼差しは、とても嘘を付いているようには見えなかった。